サナトリウム

小さくて軽くて華奢で何やら誰かが乗るだけで壊れてしまいそうなそんな儚さを伴う自転車でも坂道を風切って進んでいく、例えば俺が必死で自転車を漕ぐことで発生する作用だとか、俺の体重だとか、そもそも遥か天上まで届く空気が寄り集まって圧し掛かる重さだとか、そういったものがこの自転車に掛ける圧力が凝縮されてどこか少しばかり弱そうなところを突付いたりしたら、それだけで壊れてしまう、そんな儚さ、それはどこか人間どもが持ち得る脆さと似ているのかもしれない。


そんなわけで俺は現在サドルに腰掛けゆるりと急勾配の坂道を走る、潮の薫る空気に溶け出すイメージで俺は海が見える丘を駆け抜けていく、斜陽が俺やら海やら道やらガードレールやらを真っ赤に照らしている、ありがちな幻想的風景を後ろに俺はペダルを漕いでいる。


と言ったところで、この海と太陽を背に自転車を漕ぐという大層ドラマティックな俺の雄姿に見合うような必要性に駆られて俺は風を切っているのではなく、単に我が愛しの爺さん寝そべるサナトリウムへの道を毎日のルーチンワークとして通っているだけなのである。いわゆる必然性、つまりこんなところでぐずぐずと時間を消費している暇もなく、その劇的な様子を楽しむこともままならない、俺が為すべきことは一つ、爺さんの元へ一刻も早く着き世話をする、それだけだ。


ところで俺は今、坂道を「上っている」のだろうか、或いは「下っている」のだろうか、俺は少しばかりそこへ思考を向ける、風切って進む俺やら、丘を駆け抜けていく俺やら、そんな姿から類推するに俺は今「坂を下っている」という風景が似合う気がしなくもない、つまり海へ続く道を下るという行為が象徴的な面から美しさを助長するのであって、もし何かしらの必然性を俺に投げかけるのであれば俺は坂道を「下っている」のかもしれない。


だがよくよく一つ前の思考を反芻してみると、俺は海を背に爺さんの下へと駆け抜けているのであって、つまりそれは海から遠ざかっていることを意味する。海に近しい場所であり尚且つそこが坂道の場合、海を背に道を下るという行為は或る種可能性の低さを促す、故に俺は「上っている」という結論を出すことは難しくない。だが容易な結論程虚しいものはなく、人々はその錯覚に気付かないものだが、答えというものはいつの時代もシンプルに見えて複雑の様相を帯びている。


ここで俺は一つ問題を提議する、「止まっている」という可能性だ、否、何より坂道だとか太陽だとか無駄に付加価値を要求する小道具どもが背景にちらつくこの世界観は非常に何者かの思惑を感じさせる、例えば俺に対して必然性を持たせるような舞台設定に対して俺は懐疑的に成らざるを得ない、つまり俺はこの世界では止まっている存在であり、単なる小道具の一つなのだ、沈みかけの橙と同じように。


そう考えることで俺は世界の中で唯一止まった存在になる、見慣れた道が果てしなく続くこの坂をゼロという速度で自転車に乗り駆け抜ける、俺という圧力に抗う自転車だけが地球の中心へ向かって方向性を確かに沈んでいく、自転車=俺、その方程式を創り上げる俺の意思だけが自転車に投影され、俺も同じく下方向へのベクトルを持ち得た気分になる。



最後に、いつになれば俺はサナトリウムへ着くのであろうか、という考えが俺の頭の中で渦巻く、つまり俺がここで言わんとしていることはだ、当初から存在していた必然性を否定し、俺という人間につきまして無駄な偶然性の有無を問う自らの抽象性が馬鹿々々しさを呪いたいと思っている、そんなことなのであり、いったい我が愛しの爺さんは何をしていられるのだろう、そういった類の物哀しい思いなのである。


じっと山の方を見ながら薫りだけを頼りに海の存在を認識し、風だけが俺の顔を撫でる、電信柱の誘導灯が静かに光り、所在なさげに絡みつくスピーカーからエリオットスミスの奏でるギターが流れる。


五時の合図だ。