タマネギ・ソテ・ランデブ


世界はタマネギで出来ている、って誰かが言ってた。


誰だったか、と思い出そうとする。


例えば【黄河下流が干上がっている理由】について考えたりする。


黄河中流では野菜栽培が盛んに行われており、それは主に日本などへの輸出用なのであって、その野菜の主成分は黄河をたゆたう母なる恵み、つまりは黄河の水は中国本土に還元されず日本へと輸出されてしまうのだ、野菜に混じって。だから干上がる。


例えば正岡子規は酷くユーモラスだ。


【子規】なる名前をつける際も、【子規】=【ホトトギス】から取っており、それは、自らを、千回鳴いて血を吐いて死ぬと言われているホトトギスに喩えたのである。彼は、結核だ。


私が住んでいる上野には西郷さんもたたずむ有名な公園があって、そこには小さいながら威厳を放つ野球場がある。名前を【正岡子規球場】という。


なぜ正岡子規が野球場に名前を冠しているのかというと、それは彼が野球の殿堂入りを果たしているからであって、なぜあの結核に長年苦しんだほど病弱な正岡子規が野球の殿堂入りを果たしているのかというと、彼が【野球】という言葉を邦訳したからである。


子規の本名は、【のぼる】だ。


野・ボール。


例えば先日のことなのであるが、毎日スロットを打ちに行っていた男が借金で首が回らなくなり、私のところに金の無心を頼みに来た。私なぞ男に比べたら確かにプラス領域にいるのかもしれないのだが、しかしながらお金がないのは同じである。日々バイト暮らし、人生の価値も見出すこと出来ない私には男にお金を貸す余裕などないのである。


男は私が、無理だよ、と言ってもなんとか自らの苦難の状況を諭そうと焦るばかりで、つまり簡単に言えば必死であった。しかし私だって言ってみれば必死なのである。だから説明した。いかに私が惨めであり、一本のパンを盗んだがために19年間もの牢獄生活を強いられたジャン・ヴァルジャンなど私に比べればいかに幸福であったか、何せ私は罪を犯していない、それなのにここを見てくれたまえ!まるで牢獄だ!主の肉の筈である机上の小麦粉の塊は、今となってはアオカビの巣窟、主の血の筈であるビンの中身は酢酸のごとき匂いをこの部屋一面に撒き散らしている。


すると男は【けりをつける】と言って、我が家の台所からセラミック包丁を持っていった。


私はその時のことを思いだす。


去り際に、男はピースサインを私に送った。


ロンドンでは、ピースサインホモセクシャルのアピールだ。


「私はホモセクシュアルです」とウィンクする男は何故か輝いていた。


そこで考える、男は【けりをつける】と言った。


いったい【けりをつける】の【けり】ってなんなのだろう。


古代、貴族たちが愛した和歌たちの中では、助動詞【けり】で終わるものが多かったという。そのためいつの間にか【けり】という言葉が【終末】を意味するようになったのである。


男は、【けり】をつけたのだろうか。



■ ■ ■


ところで、もう七年ほど前のことなのだが私はなんというかウエノの映画館に立ち寄ってしまい、リヴァイヴァル映画オールナイト上映【気狂いピエロ】を観ていた。ウエノも変わった。昔は風俗とキャバクラとピンク映画館しかないような寂れた街だった。日夜、汗臭い男と、これまた化粧臭いが、自らの一物を映画館の片隅で擦り合っている、そんな街だ。今となっては豪勢なビルが立ち並んでいる、ちょっとしたオシャレ空間だ。


ちょうどフェルディナンがマリアンヌと情事を始めようとするところで、私の興奮は頂点に達しており、私の股間ニュートンが生み出した力学の法則に逆らっていた。隣には、ポップコーンを頬張る女がいた。名前を、アンナ=カリーナ、としておこう。


アンナは私のジーンズのふくらみをジッと見ていた。


素敵ね、と一言呟いた。


それから私たちは鶯谷まで歩き、焼肉を頬張り、ホテルへ向かった。


部屋に入るなりアンナは私のYKKと刻まれたジッパを引き摺り下ろし、真っ黒な闇を取り出し飲み込んでいった。あまりの唐突さと興奮から、私は思わず白濁を吐き出しそうになってしまった。


私は自らの沽券に関わる由々しき事態である、と思い、素早くアンファンテリブルをアンナの腰にあてがった。アンナのヴァギナからはほとばしる熱いエキスが垂れていた。そのまま腰を前に進めると、ゆっくりと、私は入っていくことが出来た。


これが私の童貞喪失だった。


そして、なぜか、そのまま、萎えてしまった。


「メルティングポットだよ」と私は言った。


「君の中は凄く暖かくて、私と君は、中で溶け合っていったんだ、でも、あまりに強熱融解してしまったために私は固体を保持することが出来なかった、というわけなんだ。だから、なんら君のせいじゃないし、もちろん私のせいでもないんだ」


浅い睡眠と、深い夢の間を彷徨っていると、ちょうどアンナがトイレから出てくるところで目が覚めた。アンナは水パイプにサルビアをスプーン三杯分セットし、呼吸を整え、肺の中の空気を一気に吐き出し、そして火を灯しながらゆっくりと吸い込んでいた。


サルビアが、ぱちぱち、と微かにはぜる音が部屋の中でこだました。


すると、今まで映っていたテレビが突然サンドストームに変わり、キィーンという高い音が暗闇を支配しだした。アンナの方を見ると、アンナはすでに床に倒れていた。


超音波というものがある。普通は人間には聴こえないのだけれども、超音波がもし聴こえるとしたら、こんな音なのだろうな、と思った。そう考えているうちに、また睡魔が私を襲った。


清々しい空気が頬を横切り、降り注ぐ暁光がカーテン越しに私の目を突き刺してくるので、私は仕方なしにベッドから起き上がった。アンナはフロントからコーヒーを仕入れてきていたようで、紫煙を燻らせながら優雅にアームチェアディテクティブを気取っていた。


アンナは、ねぇ何かの絵を描いてよ、と億劫そうに言った。


私は、ちょうど近くにあったメモ帳に豚の絵を描いてみせた。


「素敵なウンチの絵ね」とアンナは言った。


「違うよ、豚だよ」と私は言った。


「似たようなものじゃない」とアンナはつまらなそうに俯いた。


「ウンチと豚はだいぶ違うんじゃないかな」私は少し考えて続けた。「だって、豚は生きているけど、ウンチは生きてすらいないよ」


「生きている、って何」


「それはなんだろう、動いている、ってことかな」


「だったらウンチだって生きているってことにならないかしら」


「ウンチは動かないよ、動くウンチなんて聞いたことがないよ」と私は返した。


「ウンチだって動くわよ、例えば…」アンナは少しだけ恥ずかしそうに、一つ空気を置いて「例えばあなたのお尻の穴から出るときとかね」と言った。


「君のお尻の穴からもね」と私も応えた。「でも、違うんだ、それは。例えば豚は生きているよ。豚は自分の力で動いているからね。でもウンチは私とか君とか、その辺の人たちが動かしているだけだもの、そうだろう、アンナ」


「私アンナじゃないわ」


「うん、そうかもしれないけど」


「それを言うなら豚だってそうよ、自分で動いているかなんて判らないじゃない、神様が動かしているかもしれないし。それはもちろん私たちにも言えることよ、自分の意思で動いてる、って第三者は誰も証明できないの、つまり、ウンチと同じなのよ」


「そうかな」


「そう、だから豚だって、ウンチだって同じよ」


いつか、私がとても好きになった女の子が手紙をくれたことがある。


【ワタシ、今日からウンチになるの。ウンチはコヤシになるのが夢なの。農家のヒトに肥料として使われたいの。決して流されたりはしないの、ちゃんと、次のバトンを渡すの】


そういえば、何百年も前、まだこの国がニホンという名前だった昔、オイルショックということが起きたらしい。石油がなくなることだ。焦った主婦のみなさまは、石油で出来ているトイレットペーパをスーパで買い漁り、学校や公衆トイレからもトイレットペーパが消えたようだ。


そんなとき、公園の壁には大きくこう描かれていた。


自らの手でウンを掴め


次の日、アンナは私の家の台所にいた。


トタントタンとまな板を叩く音に目が覚めると、アンナは私が大事にしていたセラミック包丁でタマネギを刻んでいるところだった。顔を覗き込むと、うっすらとした涙が滲んでいた。


「なんでタマネギを切ると涙が出るのかしら」とアンナは手を休めないで言った。


「それはタマネギにはアリルプロピオンが含まれているからだよ」と私は言った。「硫化アリルが揮発して私たちの目や、主に鼻を刺激するのさ」


「そうだったの」


そう言ってアンナは私の方へ振り返った。虹彩を放つ大きな瞳が私を捉えていた。真っ赤に熟れた頬からは大粒の涙がぶら下がっていた。アンナは、まだ、タマネギを、切り刻んでいた。


「てっきり、私、タマネギに同情しているのかと思ったわ」


最後にアンナは【チュッパチャプス】をくれた。


私が家から帰ってくると、【チュッパチャプス】が机の上に置いてあった。アンナは、その面影ごと部屋から消え去り、代わりに【チュッパチャプス】だけが空白を埋めていた。


脇には手紙が置いてあった。


チュッパチャプスのロゴはダリが描いたそうです】


よくよく思い出すと、アンナは、【茹でた隠元豆のある柔らかい構造】、にそっくりだった。特に目は、【アンダルシアの犬】の冒頭に突如出現するあの美しい眼球そのままだった。潤いのある、目だ。



■ ■ ■


現れたのは、男と、女と、タマネギだった。


タマネギは機関銃を持っていた。


「すまん」と男は言った。


「金を出せ」とタマネギは言った。


「話が判らないから説明してくれ」と私が言った。


「借金の返済が滞って脅されたんです」と女が言った。


【けり】をつけに行ったはずの男は、どうやら機関銃の前になすすべもなかったらしく、どうやら私のところを頼りに来たようだった。私はしかたなく、なけなしの給料袋をタマネギに渡した。全て合わせて十三万六千円だった。


タマネギはそれを受け取り、枚数を数えた。


「ふざけるのはよせよ、こいつはお前が全部借金を肩代わりする、って言ったんだぜ。どう見ても十三万六千円しかない、こいつの借金は五百万以上だ、計算が合わない」タマネギはドスの効いた声でそう言い、私を睨んだ。


「私は時給八百五十円です」私は泣きそうな声で言った。


「兄ちゃん、真面目に話しな、こいつが火を噴くぜ」タマネギはマシンガンを構えた。


「事実ですよ」


「いい加減にしろよ!兄ちゃん今何歳だ?時給八百五十円なわけねぇだろ!」


私は黙りこくってしまった。


私は二十七歳だ。しかし時給八百五十円は変わらないのだ。


「台所のパンを見てください」私は切実に語った。「アオカビが生えているでしょう。机の上のボジョレ・ヌーヴォは三年前のです。匂いを嗅げば判ります。この時期、コートは一着しかないし、パンツだって洗っていません。いったい、この部屋のどこにお金があるのです。時給八百五十円では暖房もつけられません」


私は自分で言って涙が出てきた。


「本当なのか」とタマネギも驚きを隠せず呟いた。


「兄ちゃん」とタマネギが私の肩に手を置いた。


そして、…悪かった、と一言だけ声を掛けてくれた。


次の瞬間には、うっ、という呻きとともに、タマネギは倒れていた。


男の手から離れたセラミック包丁が、タマネギに刺さっていた。


「ヤっちまった、ついにヤっちまった」と男は叫んだ。


「ヤるつもりじゃなかったんだ、ただこれだって護身用で」


「どうすればいいんだ、どうすればいいんだ」


男は一人でブツブツと呟きながら部屋の中をぐるぐると回っていた。女は玄関先で放心したまま、目には大粒の涙を抱えていた。男が畳を歩き回る振動で、涙が一雫、落ちた。


「そんなタマネギ野郎のために泣くな」と男が恫喝した。


女は酷く怯えていた。


しかしながら、男もそれは同じだった。


「判らないの、ワタシ、どうしたらいいか」と女は俯いた。


「俺だって判らないよ」と男も俯いた。


「きっと天罰ね、神様が怒ったんだわ」


「そんなことあるわけない、いったい俺たちが何をした」


「いろいろ、いろいろよ」


そう言って女は、現在までの贖罪を数え始めた。


あの子に優しくしてあげられなかった、お母さんに爪楊枝を投げた、大好きだったマイケルジャクソンを非難したりとか、あの内気な男の子の告白を真面目に聞いてあげなかった、燃えないゴミの日に燃えるゴミも出したわ。


いつの間にか男も泣いていた。


滝のように涙を流していた。


男と一度だけドライブに出かけたことがある。


白鳥停車場までの、短いドライブだ。


テールランプが続く渋滞の環状八号線を下っていると鈍色の雨が窓ガラスをノックした。進まない道のりにイラついた運転席の男が、紫煙を燻らせては湿った外の空気へ吐き出していった。それと同時に、くず鉄で拵えた芋虫の肺には透明な酸素が供給された。


一粒の雨が手の甲を濡らした。ふと横を見ると、ガラス越しに伝ういくつかの雨粒が、まるで河の支流が本流へと向かうように、やがて三つ、二つ、そして最後に一つになり、落ちてゆき、海になった。


私は言った。


「おかしいな、始めはいくつかあったんだけど、雨粒が一つになってしまった」


「なんでだろう、始めは確かにいくつかの雨粒があったんだ」


「でも、気付いたらただの水溜まりになっていたんだ」


「粒じゃない、ただの水溜まりになっていたんだ」


男は相変わらず紫煙を燻らせていた。やがて男は私を一瞥し、少しほんの少しの間ここで休んでいこう、と呟いた。車も、私たちも、ニュートラルになった。目の前に看板があった。【白鳥停車場】と書いてあった。


男は言った。


「線香花火ってあるだろ」


「いくつかの線香花火をくっつけて遊ぶだろ」


「本当は落っことしたくないのに、玉を大きくしたくてくっつけるだろ」


「結局さ、落ちちゃうんだ、落としたくないのに、一つになったら、落ちちゃうんだ」


私は男を見た。ジッと見た。


その時、私は、男の声はセロのように美しい声だ、と思った。とても美しい声だ、と思った。だからこそ、涙が出そうなった。モンタニヤーナのセロから響くエルガの協奏曲は、聴くもの全てを深い哀しみに包み込む。


私は、ただ、一つになりたかっただけなのだ。


たぶん、男も、そうだ。


でも、落っこちてしまうのだ。


みんな、どこかに。


それからすぐに他のタマネギがやって来た。


みな、機関銃を片手にたずさえやって来た。


女は「あっ」と叫んで藁人形みたいに破片が飛び散った。


男は「あっ」と叫んで身体中に穴を空けて地面に倒れた。


タマネギたちは、私を一瞥し、そして帰っていった。


「ねぇ、ワタシたち死ぬのかな」


「たぶん、ね」


「ワタシたち、許されるかな」


「きっと、ね」


「ワタシたち、一緒、だよね」


女の声は今にも張り裂けそうだった。


男は無言だった。


「一つになりたかっただけなのに」


いくつかの肉塊が散らばる部屋の中で、私はうずくまっていた。しばらくして、私はようやくのことで立ち上がり、深呼吸をした。そして、置き去りにされたタマネギのところまで歩き、身体に刺さったセラミックの包丁を抜いた。


その拍子に、涙が溢れ出てきた。


これも同情なのだろうか、とふと思った。


それから私はそのセラミック包丁を持って外へ出た。冬も深まる寒空には低い雲が広がっていた。誘導灯には、微かに羽虫がたかっていた。地平線の向こう側からは、暁光が覗き込んでいた。


そういえば、誰かが世界はタマネギで出来ている、って言ってた。


私は試しに大地にセラミック包丁を突き刺してみた。


それからのことはよく覚えていない。


たぶん、何かがあったし、何もなかった。



■ ■ ■


例えば【黄河下流が干上がっている理由】について考えたりする。


例えば【正岡子規】について考えたりする。


例えば【アンナ・カリーナ】についても考えたりする。



世界はタマネギで出来ている、って誰かが言ってた。


おそらく、私が、言った。