人体のフォルム 弐

反吐が出てもおかしくない程糞ッたれな更新をしやがりました私が、ちょっと口直しとばかりに描いた絵をテキスト化しようと思い立ったので焼き直し。どうにもこうにも実験的な行為をするにはまだ技術が足りない模様で、やはり文章でもちまちま書いているのが私にはお似合いだと悟りましたよ。(あー、朝から何をしてやがりますか、私は)


→なんでもいいが貴様を観察


始まりは『無』:認識するまでの過程俺には貴様は視えない


貴様を認識するのに成功すると、そこから象徴化が始まる、つまりまず貴様を何かしらの象徴として是認する、例えば無機物か有機物か、生物か植物か、人間であるかそうでないか、そして雌雄の判断を下す、しかしながらここでの判断は貴様が実際にそうであるかそうでないかを問題としているのでは断じてない、俺の貴様への認識が問題なのであって、何かしらの差異の結果は後から追従してくる。


象徴的な判断を通過すると、貴様は晴れて視覚化される。スライム状に視覚化された貴様のフォルムの中心からニョキニョキと立体化、そのプロセスは緑色の粘土を捏ね回しやっとの思いで人体を作り上げていく苦しみと似て、やがてそのスライムもどきも貴様の輪郭を浮き彫りにしていく。


ここで視点の転換、例えばもし貴様を一面的に見ることが出来なかったとしたら、それは平面の中のポリゴン画像と何も変わりはない、つまり我々は多角的に貴様を観察することで貴様のフォルムの境界を定義する、よって視点の転換は必要不可欠である。前方から見た貴様―これは俺が貴様の前方であると認識した過ぎないのだが―、後方からの貴様、横から、上から、斜めから、あらゆる方向からの認識を行う。


あらかたフォルムを象った後、要素を具象化する、耳鼻目口、と貴様を構成する大まかな要素から、髪の毛の先から睫眉髭、肌の質感、瞳の虹彩、色素、そして表情によって変化する要素の動き、その全てをばらばらに散りばめ具象化する。しかし、ここで一旦抽象化。理解を促進する為の必然的行為、つまり、現在我々の目の前には、アブストラクトな形として原型を留める貴様の身体の一部が散らばっている。


スプラッタな光景を放置しておくわけにもいかないので、視点を調和、融合、平面的な処理が先に動く為、まず貴様はキュビズムの要領で統一化される、多角的に立体化された抽象的な貴様の要素を平面で処理した形がキュビズムであり、例えば横から観た場合我々には存在を確かめることが出来ない『もう一つの耳(或いは目)』を平面的に視覚化、それの終了と共に境界が明確化された貴様を立体として再構成する、


それが貴様だ。






そして貴様は自らのフォルムを他人の眼を通して象る、僕たち私たちはこういったフォルムを持ち得た存在であると、例えば鏡を見たときに思考する。さも貴様がその形式を維持した存在であるかのように、現実的に感じ取る。


しかしそれは貴様ではない、間違いなく貴様ではない、その鏡に映った貴様の像は、貴様を観察した第三者が創り上げた貴様のフォルムであり貴様自体ではない、例えば第三者が貴様を雄であると認識している為に貴様は雄であることができるように、貴様はその創造され少しづつ蓄積されてきた貴様のフォルムを自らに投射し自分自身であると誤認する、そしてその誤認こそが貴様のフォルムを創り上げる唯一の方法なのだ。


鏡の中の俺が、薄らと空間に融け、弾ける、パンッ。