サイクル→サークル

昨日の鴉が先ほど俺のところへやって来たので少しばかり世間話を交わしたのだが、最近カラスの生態系にも異常が出てきているようで、ちょっとした雑談の筈が数時間に及ぶ愚痴を聞かされる羽目に合った。


鴉曰く、我々の総体的な数が都会周辺で増殖したことが他の生態系との軋轢を生み尚且つ野生動物に悪影響を与えているという指摘を人間様から受けた次第で、「貴様らはこれ以上増えたらまずいので死ぬなり消えるなり数を減らしてはくれませんか」、とお願いされ、そんなこんなで我々の仲間が怪我や病気に罹ったとしても処置も何もない、冷たい顔で死を通告されるだけ、これが人間の鴉への態度かと。


鴉は少しばかり憤慨した様子で始終喋り散らしていた。


鴉曰く、我々の増殖の原因が何にあるのか正確なところをを掴んでいるわけではないが、我々にその非がないことをは確かだ、我々はいつも自然界の法則に則り生存してきたのであって、それは今も変わりはない、そしてもし我々に問題があるとしたらその問題を作り出した原因として我々は淘汰されるものいたし方がない、だがその淘汰を実行しようとしている神様自体が原因を作り出していたとしたら我々も黙っているわけにはいかない、マッチポンプを許すわけにはいかない。


なるほど、神という存在に成り下がった我々を出来得る限りオブラートに包んで批判してくれている。自ら点火をしておきながら、自ら消そうとしてやがります我々がいかに地に落ちた存在かを証明しながら、神であることも同時に証明するとは、鴉殿の手際に驚くばかり、つまり問題は我々にあり、鴉はその被害者に他ならないわけで、それを理解しながらも我々は鴉に非難を浴びせる。


例えば人間は一番偉い、何故ならば偉いからだ。


その腐った理由は何かと問われても、人間が一番偉いことを人間が決め、そしてそれに反論できる者が現れない為我々は一番偉いのである、理由などない。敢えて付け加えるなら、自然界のサイクルから唯一外れていることが原因と呼べるのかもしれない、だが大筋では理由はない。


おいおい、この腐った世の末にフェミニズム団体と動物愛護団体がそこら中を跋扈してやがりまして、そんな中で未だ貴様は正義を振りかざし偽善をの限りを尽くすのですか、という糞舐めた質問を各所から浴びせられるという予想はするのだが、それも一つの正当性であることは認める、つまり俺はこの染みっ垂れた画面を前に自らがサイクルから外れていることを証明しているわけなので、それこそ俺が何も言えた義理ではないのであるからだ。


だが俺は貴様らが何かに付けて自分が不幸であることを証明しようとしているのを見るにつけ、貴様らのその顔に反吐を吐きたくなるよ、そして貴様らが夕食を喰って美味いと感じている様を見るにつけその矛盾を嘆きたくなるよ。


鴉は生きていく上でのルールに従った結果鼠を食すことを決断した、つまり、鼠→蚤→人間→と腐った黒死病の菌どもが多くの媒介を得て自らを世界中へ振り撒いていくように、我々も食物連鎖なる一つのサイクルの中で生存しているのであって、それは勿論鴉鼠とて例外ではない。だがあの鼠は米の美味さを理解しており、鴉に至っては欲望に従うことが人生を彩ることに繋がると仰っている。それもそうだ、あの鼠と鴉も所詮は人間が作り出した創造の産物、ギリシャ神話の神々が素晴らしく人間に酷似していたのに根元を同じくする。


美食の価値は栄養の価値に勝る。


パシェラー、人間の欲望を喩えて曰く、


どんなに時代を遡ってみようが美食の価値の方がやはり栄養価値に優先していよう。つまり人間がその精神を発見したのは喜びの中であって苦しみの中にではない。余剰の征服は必要の征服よりも大きい心的興奮を与える。人間は欲望を創造するものであっても、必要を創造するものでは断じてない。


喜びの中で人間は自らの精神性の深さを知り美味い美味いと夕食にありつく、決して不味いものを進んで食すことはない。だが人間は不味いものを食したときに恐らく苦しみを覚え、それを食している自らの環境を呪うだろう、人間の中だけの相対性でしか自らを計れない我々は確かに神だ、あらゆる悲劇性を含んだ神、自らを唯一絶対の生物であると勘違いしている。




簡単に結論を出せば、俺は鴉、貴様は鼠だ。




俺は貴様を喰らい、貴様は俺を淘汰する。