彼女について


ただの糞作品。


ただの馬鹿げた恋愛物語。


そして、ただの予定調和。




意味なんてない。




だけど、予定調和だなんてことなんて当の本人たちには当たり前のように判らないことであったし、彼らはそんなつもりでその日を生きていたわけではない、ってことを多少は判って欲しい。ただ彼らは愛し、悲しみ、そして生きたのだ。





ある晴れた朝、母親が自殺した。俺の八歳の誕生日だった。


ある晴れた朝、父親が蒸発した。俺の中学校への入学式だった。


それから俺はいつも一人だった。十九歳になった今でもあの時の事を思い出すたび自分の中の何かが壊れていく感覚に襲われる。一人で居た俺が何かを継続的にに失い続ける、そういう時代だった。


だけど、思うんだ。


君に出会ったあの日から、世界は俺の中に少しづつ少しづつ永遠に刻み込まれていったんだって。何か俺の存在と、そこに繋がるべき世界に俺を対等に位置づけてくれたのは君だったんだって。



そう思うんだ。



初恋なんて誰にとっても或る程度ほろ苦く時には美しい思い出に美化されていくようだが、実際はどうしようもないくらい糞、例えていうなら一度吸い終わり灰皿やら地面やらに投げ捨てられた煙草をもう集めては吸い集めては吸う浮浪者くらい糞だ。


あの頃俺は餓鬼だった。蜘蛛の子状、そこらへんにいくらでも散在するくらい俺はただのありふれた餓鬼だった。どう贔屓目に見たってあの頃俺は力が圧倒的に足りなかったと言わざるを得ないし、しかしながら力が俺に存在したところでいったい俺に何が出来たかと言われればそれまでだし、とにかく俺には何もかもがなかった時代だ。だが、それは今も同じなのかもしれない。



(IN MY LIFE)



こんにちわっ、君がはにかみながらそう言ったときから僕たちの全ては始まったといえる、それは十五歳の小春日和、一般的に言えば入学式の朝だ。常識的に考えて普通は初めましてから始まるものではないか、という疑問も僕の頭の中に浮いてはいたが、彼女の頬を多少赤らめた笑顔を見ていたらそんな糞とも思える疑問は吹き飛んだ。初対面の僕とまるで旧知の仲の様に話す彼女の可愛らしさは、地球上の何を以ってしても表現は出来ない。程なくして、席が隣同士の僕たちの仲は急速に深まっていった。


ある日の朝、真横に差し込む太陽が黒板を白く霞ませる中で本を読む僕に、おはよう、と元気よく手を振って話しかけてくれたよね。近づきがたい印象の僕に屈託なく笑う君は非常に印象的だった。中学以来、友人も作らず一人で居ることを自身に課していた僕に対して、あんなにも開放的に話しかけてくれたのは君が初めてだった。彼はちょっと恥ずかしがり屋さんでちょっと変わっていているけど凄い面白くてかっこいいんだから、ってクラスメイトに紹介する君がひどく一生懸命であったのを覚えているよ。君は誰にでも優しくて、何にでも一生懸命な女の子だった。


ある日の授業中、作文を一人原稿用紙一枚書くという課題を出されて君は笑顔で言ったよね、マス目がないこの原稿用紙を利用すれば作文一枚なんて楽勝だね、って。その後先生に、あまりに字が大きすぎるという理由で再提出を大声で言い渡され教室中の笑いものになった時、うつむきながらそっと僕に向かって舌を出したのをよく覚えているよ。君はちょっとお茶目な女の子だった。


ある日のクラス会、君は文化祭で映画を作ることを頑張って皆に演説していたよね。どんなに塚本晋也が素晴らしい監督か、どんなにキューブリックが映画界だけでなく多くの分野に影響を残したかを必死で説明する姿は非常に愛らしかったよ。少しばかり皆はあまりのマニアックさに引いていたけど、普段の君を知っている皆はすぐに賛成したよね。映画の件が承認されたときの君の小さなガッツポーズと、その後僕に送った意味ありげな視線。何故か僕は君に主役に推薦され、さらには全会一致で承認されてしまいその後ちょっとばかしきつく当たってしまったけど、今は大して怒ってないんだ。あれも大事な僕の思い出になっている。怒っている僕にひたすら謝る君を覚えているよ。君は多少世話焼きでひたむきな女の子だった。


ある日の放課後、掃除当番だった僕を引きずり出して、どぎまぎする僕の手を引きながら楽しそうに巣から落ちた雀の子供を助ける手伝いを頼む君が、前にある壁に気付かずそのままぶつかって転んで頭を抱えて喘いでいるのをよく覚えているよ。君は動物思いで、少しばかりどじな女の子だった。


いつの間にか毎日登下校を共にするようになった僕たち。歩いている僕の背後からスキップしながら腕を絡ませてくる君に、僕の胸はいつも鳴りっぱなしだったよ。そんな君をぞんざいに突き放したりしたけど、正直に言えばあの時僕はただ恥ずかしかっただけなんだ。だって既に僕は君に惹かれていたんだから。気になる子と腕を組むなんて恥ずかしくて出来るわけがなかった。


そんなこんなで君と僕がいつも一緒にいるようになって、なんだかクラス公認の仲というか、そのことで皆にはやしたてられていたのを覚えているよ。そんな時僕はクールに振舞っていたけど、君は頬を赤らめて下を俯いていたよね。あとで君は恥ずかしそうに、なんで皆ああいうこと言うんだろうねただ一緒にいるだけなのに、君は迷惑だよね、って笑いかけてくれたよね。僕が君は、って聞くと、私は…、ってまた顔を真っ赤にする君は本当に可愛かったよ。


そしてある日の午後、僕たちの運命の日がやってきた。太陽が降り注ぐ学校の屋上で僕たちは君が朝一生懸命作ってくれたお弁当を食べたよね。一人で暮らして大したものを食べていない僕にとって君のお弁当は神様からの贈り物に見えるくらい美味しかったよ。それで、そう丁度僕が君の玉子焼きに手をつけようとしたときだった、一組のカップルが屋上に入ってきて、誰もいないものと思ったのか、急にキスをし始めたんだ。それに目を奪われた君は顔を真っ赤にして言ったよね。


もしかして君もしたいの、って。必死に否定する僕に、顔真っ赤だよ、って自分を棚に上げていったのを覚えているよ。やっぱりしたいんだー、といじらしそうに言う君は本当に可愛らしくて、すぐにでも抱きしめたいくらいだった。突然立ち上がって僕から目を逸らし上を向きながら、大丈夫君はすぐ出来るよカッコいいもん、って人差し指を立てて講釈する先生みたいな格好をした君。



僕はたまらず君の唇に接吻した。



僕は驚く君に向かって言ったよね。すぐ出来たね、って。



俯く君と立ち尽くす僕を尻目に、突然口笛と拍手が起こったのを鮮明に記憶しているよ。十人ばかりのクラスメイトがそこには立っていて、何故か僕たちを祝福してくれたよね。あのときは流石の僕も気が動転してしまい何がなんだか判らなくなってあたふたしていたものだけど、付き合ってくださいってやっとの思い出言った僕に君は、はい、ってゆっくりと答えてくれたんだ。



(With A Little Help From My Friends)



騒ぐ皆の中で僕たち二人だけが終始無言で立ち尽くしていて、今考えるとちょっと異様な光景だったのかもしれない。でもあの時ほど嬉しかったときはなかったし、あのときほど空が透明に見えたときもなかった。それは確かなことだったんだ。


ほどなくしてやって来た夏休み。僕たちの新しい時間がやってきた。


なんの約束もしないまま別れた終業式の翌日、眠たい目を擦りながらチャイムの音で玄関に向かうと何故か麦藁帽子を被った君が恥ずかしそうに俯いていて、どうしたらいいのか判らない僕の前に突然壁の向こう側から、くだんのクラスメートたちが僕を驚かせたね。あの時は、まさか僕の家にこんな大勢の人たちが訪れるとは思ってもみなかったから、僕は驚きのあまり腰が抜けてしまったんだったね。そんな僕を見て笑う彼らと、ちょっと本気で謝る君。でも本当にありがたかったんだ。本当に君のお陰なんだ、何もかもね。


その後のことは良く覚えていない。プールに行って、泳いで、僕と君、二人一緒に突き落とされたり、そのまま何故か見詰め合ってしまい水を掛けられはやし立てられたり、その行為に対して僕たちが係員から叱られたり、よく判らないうちに時間だけが過ぎていった。まだ恥ずかしさと無意味なプライドから、どうも自分の望むことを行動に移せない僕がひたすらに25メートルプールを永遠と往復し続けていると、君がプールサイドから手を差し伸べてきて言ったね、


今日はお祭りだよ。


賑やかな縁日、出店を彩る電球、何もかもが僕たちを祝福しているような喧騒の中、僕たちは手をしっかりと握り締めながらお祭りのひと時を楽しんだ。こういってはなんだけど、君の不器用さはその手の大会でもあったらナンバーワンにでもなれるようなもので、ことごとく網を突き破っていく金魚たち、いっこうに倒れる気配のない射的の人形、何をやらせても君は或る意味一流だった。


そんな君を僕がからかうと君はちょっと泣きそうになって、次こそは絶対決めるんだから、と言ってことごとく外したよね。最後の小銭をお店のお兄さんに渡して、ラストチャンスとばかりに輪投げにチャレンジする君に僕は密かに心の中でエールを送ったものだよ。


それでも最初の二回を外し、君は静かな眼差しでドラえもんのぬいぐるみを狙った。そして最後に残された輪が君の手から放たれ、空を切り、ゆっくりと地面に着地する。


輪の中には青い、まるで空みたいなドラえもんが居た。


手にしたヌイグルミを空に掲げ本気ではしゃぐ君はなんだか子供みたいで、そう考えると僕は子守になるのかな、なんて考えていた。僕は君のヌイグルミをちょっと拝借して眺めていると、なんだかその顔がおかしいことに気付いた。どうもパースが狂っている感じがした。


その事を君に言うと、ちょっと怒ったように、可愛いからいいのよ、と言ったけど、僕はそのドラえもんらしきヌイグルミのタグに「ノラえもん」と書いてあったのを見逃しはしなかった。でもそのことは君には黙っておくことにしたんだ。こんな形で君にそれを教えることになるとは思わなかったけど、可愛いからいいんだよね。たまに僕は、「ノラえもん」の為に必死で輪を投げる君を思い出してはくすくすと笑っていて、それを君によく指摘されていたけど、理由はこういうわけなんだ。今はちょっとは悪いと思っているよ。


お祭りも終わりに近づき、それを知らせるように花火が打ち上げられた。僕たち二人は神社の境内で空に咲く花火を見て少しばかり感動していた。そして、背景に花火が打ち上げられた時の恋人たちの宿命を守るように、僕たちは長い長いキスをした。僕たちが一つのロマンティシズムに浸っていたあの頃、月並みかもしれないけれども、この時間が永遠に続くと思っていた。



それから僕たちは、毎日毎日、飽きもせずにいつも二人一緒にいたよね。



遊園地に行ったり公園にピクニックに行ったり、そういえば夜の学校なんてのも行ったね。あの時の君は本当に可笑しかった。必死な形相で柵を乗り越える君と、追いかけてくる警備員、本当はこんな事する子じゃなくて優等生なはずなんだから、全部君のせいだからね、と警備員を振り切ったあとで説明する君は凄く可愛かった。色んなことが駆け足で過ぎていって、色んなことを体験して、色んなところに行って、もう僕たち二人で遣り残したことなんて実はないんじゃないのかな、なんて思うくらい夏休み中たくさんのことをしたよね。話し始めたらきりがないくらいたくさんの事をしたよね。


強いてあげるとすれば、やっぱり二人の一泊だけの旅行だったと思う。あれはやっぱり一番思い出深くて印象にも残っている二人だけのささやかな旅だった。なにしろ厳しかった君の両親をなんとか説得してやっとの思いで行けた旅行だったから、それだけ感慨も深かったんだ。


残暑も緩やかに終焉に近づき、そろそろ学校も始まろうという八月の終わり、僕たちはバスで箱根に向かった。夏は多少避暑地としての人気もある箱根、それでも閑静とした別荘地はひっそりとしていて、僕ら以外が誰もいないんじゃないか、ってくらい静かだった。


バスを降り、急なアップダウンを三十分ほど歩き、やっとの思いで目的地に着いたときの僕たちの興奮ぶりといったらなかったよね。住所のメモとそこの番地を確かめ、それが一致したとき、僕たち飛んで跳ねて喜んだ。なんだか二人だけで見つけたものみたいで嬉しかったんだ。


暫くの間放心したように床にへたり込み、ただ空を見つめる二人、でもそんな状態が続いたのは10秒くらいだけ、もしかしたらもっと長かったのかもしれないのだけれども、十秒くらいに感じた、僕たちは視線を合わせて、静かに抱き合ったよね。



それから自分たちを確かめるように僕たちはお互いの体を求め、抱き合い、キスし、夜も更け、朝が来るまでそうやって抱き合ってセックスしていたよね。今思うと何であんな大胆なことを初めて同士だった僕達ができてのかは判らないけど、それこそ神様がちょっとした勇気を僕たちに与えてくれたのかもしれないね。



朝起きると君は半裸のままでバルコニーに出ていたよね、森の中で森林浴だよ、なんて笑顔で言ったけど、今日という一日が終わり、また自分たちが帰るべき場所に帰るのが厭で堪らなかったんだ。それは僕も同じだった。だから僕は君に言ったよね。



卒業したら結婚しよう、って。




笑顔で、それでいて凛として、はい、と答える君は素晴らしく可愛らしかったよ。僕は君の瞳から落ちた一滴の涙を拭い君に接吻した。もう僕たちの間で言葉は何も必要はなかったよね。あの接吻が全てを語っていたと思うし、君の涙は僕たちがひとつの世界にいることを助長していた。僕たちはまた一つになった。








そして夏休みは終わり、学校がまた始まる。あの楽しい夏が過ぎ去ってしまって少しばかり寂しい感じもしたけど、それは全く苦痛にはならなかった。何故なら君とまた毎日会える日が始まるからだ。それまでの僕からは考えられいことだけど、僕は学校に行きたくてうずうずしていたんだ。


始業式の朝、二子玉川の駅のバス停、僕は既に集まっていた生徒達の中で友人を何人か発見し話していたんだ。下らない夏休みの報告を交わしているとその一人が言った。おい、お前の麗しのお姫様のご到着だぜ。彼の指が示す方向を振り返ると、車の中から父親らしき人に連れられ君が出てくるところだった。あとで知ったことだけど、君はその日、車で学校まで送ってくれると提案した父親の言葉を丁重に断って、早く僕に会う為にバス停まで送ってもらうことにしたんだよね。


とにかく、あたりをきょろきょろし僕を見つけて手を大きく振ってにっこり笑う君を見て、お父さんも横で苦笑していたのを覚えているよ。よっ、ご夫婦登校ですか妬けますねーピューピュー、と横で囃し立てるクラスメイト。駆け寄る彼女。もう熱くなり始めていたアスファルト。7:47を示すデジタル時計。雑談にかまける人々。そして僕。



この時、彼女の時間は永遠に止まることになる。



左へ大きく曲がるカーブの向こう側から突如姿を現した一台のタクシーは、彼女を遥か遠く、ガードレールを超えた焼けたアスファルトの道、それでいてあの世だとか天国だとか、そんなふうに形容される場所へ連れて行ってしまった。








ガバッ!!


厭な汗を背中を伝う。なんて糞な夢を見たんだ。気合を入れる為、そして乾いて塩辛くなった肌の汚れを流す為に洗面所へ向かい、鏡越しに自分を見ると、そこには酷い顔をした僕が立っており、頬には涙の跡があった。時間は八時過ぎ、いかに急いで学校へ向かっても遅刻の時間だ。どうやら今日は随分と眠ってしまったらしい。急いで支度をし学校へ。既に誰も居なくなったバス停から学校行きのバスに乗り込み、校門の丁度前で降りる。汗をかきながら廊下をひた走り、教室のドアをお勢いよく開ける。


おはよう!!


出来うる限りの大声を張り上げ挨拶をするも誰も反応しない。普段なら幾通りのもの声が返ってくる筈だがその声は存在しない。クラスの殆どの生徒が黙ったまま前を向いて座っており、その多くは小さな嗚咽を漏らしていた。不思議に思った僕も自分の席に向かい、そのまま黒板を見つめる。そこには今でもよく覚えているたった二行の文面が並んでいた。



○○さんは今朝一時ごろ、天に召されました。 



皆さん○○さんのために祈りましょう。



左手に握られていた鞄をだらしなく床に落とし、右手は、なんだか込み上げてくるそれまで感じたことのない感情から強く握り締められていた。目から唐突に涙があふれ出て来る。母親が自殺したときも、父親が蒸発したときも、一度たりとも涙など流したことがなかったのに。身体は痺れ、頭のなかでは聞いたことのない音楽が流れこんでくる。



(PORCELAIN)


ララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララララ


生命、目から、死の境界が、顔から、、或いは、もしかしたら、そして、もし、握り締めた手は隣に在する人間の眼を抉り出し、例えば、生贄に捧げる、だが既に存在している、左手の発汗、血が右手を覆い、交互に垂れる血と汗のコラボレーション、ぽちゃん


ぽちゃん


鮮明な赤はヘモグロビン、赤血球の体積はヘマトクリット、ソフトフォーカスに膿が流れ出し、それから一人立ち尽くす俺自身の姿、さらにそれを眺める俺が天井にへばり付いて、それを眺める遠く千光年先の俺、永遠に続く俺、確かに立ち尽くしていた、俺は、少なくとも頭の中では。







(I NEED TO BE IN LOVE)






簡単に言ってしまえば、僕は子供だった。どうしようもないくらい僕は子供だったのだ。その日、本当にその日まで、「死」というものが身近に感じられなかったのだ。母親の死でさえ、ただの他人事だったのだ。だから、だから、そんなもの、たかが人間が作った鉄の塊ごときで君が死ぬなんて思ってもみなかったんだ。事実、以前バイクに轢かれた知人は無傷でぴんぴんしていた。だから君だってそんなもので死ぬはずがない、って高を括っていたんだ。


君もそんなもので死ぬなんて思ってもみなかっただろう?


そうだろう?


そんなんで僕と永遠に別れなければいけないなんて、考えもしなかっただろう?



それから三日置いて、葬式が厳かに敢行された。



たんたんと進んでいく葬式の儀式、泣き崩れる生徒たち、ハンカチーフを顔から離すことの出来ない彼女の母親。彼らを尻目に俺は裏で煙草を吸っていた。とてもじゃないが彼女の遺体をみることなんて出来なかったし、彼女の両親にも会って何かを話せる精神状態じゃなかった。そしてキリスト教式の葬式が行われ、煙草のストックがそろそろ切れかけていた時、そいつが現れた。


タクシーの運転手だった。


俺は覚えていた。確かにそいつはあの時のタクシーの運転手だった。奴は恐らく今後、裁判が執り行われ、莫大な慰謝料と交通刑務所への入所が待っているのだろう。明らかな怠慢とはいえわざとではないのだし、待ち受ける彼の今後を考えると流石に怒る気持ちも冷め、同情の念すら沸いてきた。しかし、それも隣の弁護士らしき人間と話すの聞くまでだった。



なんとか執行猶予はとれそうなのか?おい、どうなんだ、俺は大丈夫なのか?俺は豚箱なんて行きたくないぜ、高い金払ってるんだ、慰謝料だって最低限にしてくれよ、保険会社からだってかなり五月蝿いんだ、もうあいつらの話を聞くのもやなんだよ、なぁ、判るだろう?



考えるよりも手が奴の胸倉を掴んでいた。震える右手を奴の顔の目の前にあてがい、てめぇ何様のつもりで葬式の場でそんなこと言ってんだここでそれを言うことが貴様の保身か貴様の筋の通った生き方なのか貴様の人生なのか、怒りと情けなさで溢れる涙が俺の頬を伝い、ようやく危機を感じたのか奴は言い放った。お、俺だってやりたくてやったんじゃねぇあいつがあんなところで出てきたお陰で俺は刑務所に行き家族を失い金も仕事も免許すら失ったよどうすりゃいいんだどうすりゃあいいんだよお前こそ考えているのは自分の身内のことだけだ俺だって失ったんだよ視点を変えて見てみろよ!!!


涙を浮かべるタクシー運転手に震える拳を振り上げ、あんたは、あんたは、あんたは…、あんたは失っていない、少なくとも完全な意味での消失ではない、まだやり直せる、またいつでも会える、望み、改め、また信頼を勝ち取ることも可能だ、だがな貴様、彼女はもう何もない、ここからは何
もないのだよ、死への無条件の隷属しか残っていないんだよ。そして俺は振りかぶり殴る、殴る、殴る、奴の血が拳にへばりつくが気にせず殴り続けた、気付くと泣きながら振る拳が大きな包容力のある手に止められていた。奴は咽び泣き鼻血を顔につけごめんなさいごめんなさい、とひたすらに謝っていた。俺の手を止めていたのは彼女の父親だった。


火葬場のベンチに二人で腰を掛けた僕たちは、永遠とも思える時間を前を向いたまま黙りこくっていた。ひたすら何かを考え、或いは何かを考えている振りをし、恐らく無駄な牽制をし合っていた。


沈黙を破ったのは彼の方だった。


俺は昔ノヴァーリスという作家が好きでな、よく奴の本を読んでいたよ、奴は言うんだ、罪を理解するものは、徳を理解し、自己自身と世界を理解する、ってな、俺はその気になっていたよ、つまり俺は罪を理解し、そして徳をも理解したつもりになっていたんだ、だがな、それは全くの誤りだったよ、これから俺と妻は何千万かのはした金を保険会社から受け取り、その代償としてある種の俺自身とも言える記憶や未来を切り取られるわけだ、奴が言いたいことはこうだ、罪を理解するということはその罪を犯した者に対しても大いなる徳を以って接し、キリスト的な存在として世界を理解する、つまりだ、サドが言う「罪が法律と呼ばれているものに対する形式的な違反」であることを皮肉っているだけなのか、そうじゃなかったら、誰にも不可能なことだってことさ。しかし俺は理解しきっているつもりになっていた、そんなに俺は脆弱じゃない、とな。しかし俺は脆弱以外の何者でもなかったし、立派な人間だったよ。糞みたいな人間だったよ。


何故あの子が、何であの子なんだ、と手を自分の膝に打ち付ける彼を見ても僕は何も言えなかった。


君のことは娘から毎日のように聞いていたよ、好きで好きで堪らない、ってね。それは本当の気持ちなんだ、父親としては勿論悔しいけど、それは仕方ないことだ、娘の気持ちを変えることは私にはできないからね。だから、あのときは悪かったと思ってる、私も動転していたんだ。


救急車が来たとき彼は、載せてくれと泣きながら懇願する僕を恫喝し退けた、たしかにそのお陰で僕は彼女の死に目に会えなかったわけだけど、でも彼の気持ちも勿論判ったかラ何も言わなかった。


いいんです、もう、過ぎたことです。



誘導灯が白い壁に映える。








九月五日、僕は彼女の両親に向けて手紙を送り続けている。


手紙を書く僕の横にはいつも「ノラえもん」がいる。




だから君も他人にやたら打ち明け話なんかしないほうがいいぜ。そんなことをしたら多分君だって誰彼構わず懐かしく思い出しちゃったりするだろうからさ。


  ―ホールデン・コールフィールド




愛しの君、そして少数の幸せな人たちへ。