彼女との対話


純文学或いはその他の要素についての対話


「つまり僕は思うんだけれども、最近の純文学と呼称されているものには嫌悪感さえあるというわけだ」


「つまり彼らのとっているスタンスとそれを評論している人間が気に入らないというわけね」


「言いたいことはあらかたそこに集約される」


「この場を借りて逆説的に純文学批判をしたいってこと、それでいいかしら」


「問題ない」


「では始めましょうか」


「グッド、始めよう」


「どうぞ」


「僕が言いたいことは、奴ら、いわゆる評論家と名刺に書かれているだけで自分が評論家になったと勘違いしている連中のこと、つまり奴らが言いたいことは自分に理解できないことは全て素晴らしいということに繋がるということ、そこが気に喰わない」


「理解できないことを理解した振りしてそれで褒める」


「つまりは」


「玄人根性」


「ダッツライト、自分は特別だなんて思っている人間の多くが大衆的だとかポップと呼ばれているものから離れたがる傾向にあるわけで、大衆的なものを批判することで自分をマイノリティーに位置付け、それを特別と呼称したいだけってわけさ、素晴らしい理念だ」


「マイノリティーに成りたくなくても成らざるを得ない人間がいるのに対して随分と滑稽なものね。」


「そんなものさ世の中は、だが僕が考えるに、人間はいずれにしてもマイノリティーに成りたいと考えている、だからこそマイノリティーに成れなかったマジョリティーはマイノリティーを時に批判する、怖いのさ、普通ではない人間の存在も自分が普通の人間であることを認めるのもね、それで最後の手段として、意味のないそして何かしら意味があるそう思われるようなことをしては自分はマイノリティーに成ることができた、って思っているのさ。」


「憧れは時に」


「恐怖になる」


「ところで流行に流されるのが嫌いという声をよく聞くわね」


「あぁよく聞くね、自分たちこそが流されているとも知らずにね、本当に良いものを表現できる人間はその自分の激しい衝動、いわゆる他人にとってはどうでもいいようなもの、その衝動をポップの中に隠して表現するものさ、しかしながら流行に流されていないと勘違いしている奴らは常に大作だとか、つまり商業主義的なものを嫌うわけだ、だから、ポップ=悪、ってのはもう定石なのであって、それは覆らない根底のようで、純文学にしたってそれは同じだということ、それが音楽だろうが下らないウェブの片隅だろうが普遍的な価値観だよ」


「ところで純文学って何かしら」


「その定義は微妙と言える、定義がファジーではないものなど存在しない、なんて言われるかもしれないけれども、確かにそれは微妙だ、一応広辞苑を参照すれば、確か、大衆的なものに対して純粋に芸術を志向する文学、というような区切りをされていると思ったけど、まぁ言うところの「芸術」と何か少数になるということを勘違いしているんだろう、言ってみれば彼らは可愛そうなヒトたちだよ」


「私たちはどこからを純文学と呼ぶことができるの」


「さぁ、それはだいたいにおいて評論家の皆さんが決めることであると思われるけど。どちらにせよどこからがエンターテイメントと認識できるのかも定かではないし、音楽にしたってポップスとロックの差なんか判ったもんではない。もしかしたら僕が書いている腐った文章も或いは純文学と呼称可能かもしれない。しかし、純粋に芸術を志向する文学とはよく言ったものだ、いったいどこの誰が売れないと判っているものを作りたいと思うんだろうか、評論家の皆さんが、これは芸術的なものだ!なんて言う掛け声を待つ哀れなブタさんたちは自分のことを芸術家だと勘違いしているのか、そんな期待をしている時点で既に大衆的なものとはならないかい、ふっ僕がこの定義で純文学と呼ぶことのできるものは自らで作り上げ、そして商業的に全く利用しないもののみだ、それ以外は全て却下、大衆小説さ」


「それはいわゆる同人誌?」


「近いものがあると思う。ただあの類のものも利益を回収することもある、似ているようで、非なるものなのかもしれない。我らが日記とかその辺じゃないだろうか、どちらにせよその日記書きどもも評価を期待しているわけだが」
「自己満足だけが純文学なりうる」


「そう、つまりはオナニーさ」


「あからさまな人間は好きになれませんが」


「失礼。しかしながら言わせてもらえば、あれだ、純文学とセックスは切り離せないというのが定説で、彼らは現代のセックスを単なる感覚、或いは認識手段として芸術という域までこれまたどうしても昇華させたいらしいからね、日常=芸術みたいなことが今の社会の傾向でもあるから仕方ないと言ってしまえばそれはそれで仕様の無いことでもあるのだけれども、セックスがヒエロファニーであった時代は終わったってわけさ。日常を描いてそれを芸術だなんて勘違いしている人間が多いこの世の中、くだらないよ全く、そんなことだから事実は小説より奇なりなんて言われてしまう」


「そうね。小説である意義として有り偶然性は必要ではあると思う」


「小説的ご都合主義、時にはね。我々も彼の如き場所で出会うという偶然性を含んでいたわけだが、おかしいと思いましたよ、あのような出会いは誰だって運命を信じてしまう」


「えぇ、都合良く進まなければ全く時間がかかって仕方ないわ、もし現実だったらどれくらいのページ数が必要になるのかしら、見当もつかない」


「しかしそれにはユリシーズっていう例もあるからね。時間と小説の辻褄を合わせ淡々と日常を続かせる、日本人でも似たようなことをやったヒトがいたようだが、筒井康隆か、まぁ僕たちに運命なんてものがあったら笑ってしまうけど」


「運命よ」


「どうも」


「小説とは、行動が形式を発見し、人間たちが絡み合って終結という言葉が発せられ、どの人生も宿命の容貌を呈する世界でなくて、なんであろうか。小説的世界とは、深い欲望に従って、現実世界を修正することに他ならない。この二つの世界はいずれも同じものだからである。苦悩も同じであり、虚偽も同じであり、虚偽も夢も同じだ。作中人物は我々と同じ言葉、弱点、力を持っている。彼らの世界は、我々の世界より、美しくも、有益でもない。だが少なくとも彼らは宿命の果てまで進む。カミュ


「WOW、素晴らしく博識だね。しかし言い得て妙だ、その言葉、皆さんにも是非聞かせてあげたい」


「つまり行って帰ってくるというそれだけのありきたりな冒険談、それを純文学と呼称していること自体が気に入らないのでしょう」


「それもあるね、どこぞの少年少女或いは家族向け、ってな感じのアニメーションじゃぁないんだから、仮にも純文学を謳っているわけで、ありきたりでは駄目なのではないかい。あ、勿論僕がここで言っている純文学は広辞苑とはまた違った解釈なんだが、結局彼らが呼称する最近の純文学とかいうものが行き着くところは、あらぬ方向に行ってしまった人間を現実世界に連れ戻し、道を修正してあげる、すなわち只の少女の家出と似たようなものなのだよ。それを社会問題やら時事的な囲いで覆って抽象的にしているだけさ」


「一理あるね。だけど、バナナフィッシュを例にとっても行き過ぎたものを描くと悲嘆になるばかりだと思うけど」


 「まぁ、ね、それは認めよう、しかしそれこそカミュ曰くの、宿命の果てまで進む、ってことなんじゃぁないのかい。進みすぎた先が幸福であろうがなんであろうが知ったことではないけれども、『進む』ってことが大事なんだと思うけどね。バナナ熱に罹って死んでも文句は言うまい、ってくらいの覚悟、僕にはあるけど。むしろ行き過ぎた先に悟りがあるかもしれない。どちらにせよ行き過ぎた行為には何かしらの付加価値があるよ、少なくとも少年少女の非行を芸術に昇華するよりは。大人たちはこぞって批判すると思うけど」


「そこには確かに何かしらの意味が見出せそう。殺人でも極めれば戦争という輝かしいものになるわけでもあるのだし」


「そんなことを言うとまたナチス批判やら抗日運動家やらが出張ってくるからその話題は避けたほうが無難というものだ」


「だけどそういうもの中から純文学は生まれるのではなくて、どのようなものにせよ、新しい波は批判の中から生まれるものだと思うけれど」


「ははぁ、これは一本とられたね。ありきたりな冒険談から抜け出そうという時にその僕がありきたりという常識に縛られていた、ってことか」


「そういうことになるわね。結局のところ、誰だって常識には縛られるものよ。いくら僕たち私たちは自由人です、って宣言したとしてもね」


「言ってくれるね。僕はいつでも自由人でありたいと思っているけど」


「是非頑張ってもらいたいものね。アインシュタインも、常識とは18までに身に着けた偏見のコレクションのことを言う、と仰っていましたしね。あなたはこれまでにどれくらいの偏見を収集してきたのかしら」


「ゼロだと信じているよ、偏見なんてどこにもないさ」


「地球は」


「青かった。」


「取り敢えず一つ偏見を見つけたようだけど」


「常識だろ、と、それが不味いのだな。しかしながらこれでは知識=偏見になってしまう」


「いえ、実際に体験したことは除かれると思うわ」


「ということは本の知識は問題外ということか、ということは、全ての書は読まれたり、なんてマラルメも馬鹿なことを言ったものだな、ふむ、しかし僕が地球が青かったという事実を確認していないことは君には判らないと思われるが」


「では見てきたのかしら?」


「否」


「ならいいわ」


「それも常識、つまり偏見の目から見たものではないのかい」


「えぇ、私は偏見の塊だもの、言葉使いからわからないかしら


「そうですか」


「そうですよ」


「まぁいいけど、なんにせよ純文学ってのはそういうのを判った振りをしているインテリが語るどうでもいい代物さ、何が大衆的でない純粋に芸術を志向する文学かと、いい加減なことをいうのはやめて貰ってもっと読者に媚びてもらいたいね、僕は読者には媚びないでただ芸術を志向して作品を作っているだけなんだけれどもこれがどうしてなんだか売れてしまうんだよねあははは、っていうのが一番頭にくる」


「世間で成功するということは世間に成功させてもらうことに他ならない、と彼の小林秀雄先生も仰っていらっしゃるしね」


「そう、いみじくも彼は言ったね。素晴らしい言葉を残したものだ」


「そうね、それは的を射ていると思うわ、だからこそあなたは、世間に成功させてもらっているにも関わらず読者を無視したような態度が気に食わないのね」


「あぁ、そうだね。しかし、しかしだよ、彼らは本当に読者を無視しているのかな、僕にはただのポーズにしか見えないけどね、なんというのかな、自分の中の芸術とだけ向き合って作品を作った、なんて言うと格好よく聞こえちゃったりするからね、つまりナルシズム、世間に向かって自分が芸術家であることを発進しては優越感に浸っているわけだ」


「そういうことね。ただの格好つけということね。それは勿論あるのではないかしら、誰だって格好をつけたいという気持ちは持っているでしょう」


「それは確かに、かくいう僕もそうだ、否、もしかしたら僕も純文学は格好つけているということを言うことで格好つけていない僕を格好つけているのかもしれない」


「よくそこに気付いたわね。それに気付けば十分よ」


「しかし考えは変わらないよ。それを加味したところで、それらの作品価値が変わるわけではないからね。いまだに虚しい冒険談のままさ」


「それは結構なことよ。私があなたに何かを言う資格はないわ。ともかく私が言いたいのは、あなただって何か間違いは犯している、ってこと。勿論私もね。できればなんとかしてつまらない絶対帰って来るという予想が確実な、そんな冒険談にだけはしたくはないというところには同意するわ」


「どうも、君の同意が得られて嬉しいよ」


「どうしたしまして。」