変身

日曜の清々しい空気が俺の頬を通り過ぎ、降り注ぐ陽光が瞼の下まで眩しい、強烈な日差しとアスファルトも溶けだす熱気、加えて庭の向日葵どもに水を与えなければいけないという義務感から仕方なしに体を起こす動作を試みるに、なにやら不思議な違和感が頭をよぎり、気付けば俺は向日葵になっていた。


栗鼠は向日葵の種が好きというし、常日頃から栗鼠に指を齧られていたという事実もあってか、俺は自分が向日葵であることを素早く認識、特殊性から一般性への変換処理を施す、そして解釈の実践。


要素:瞼を開けるまでの俺は何者であったか


瞼を開けようと試みた時既に俺は向日葵だったのか、或いは瞼を開けた瞬間に俺は向日葵になったのか、それとも俺は向日葵へ変化を遂げた後寝たのか、否そもそも俺は向日葵だったのか。


仮説:壱:瞼を開ける以前から向日葵であった


向日葵だった俺を認識する手段は睡眠中の俺に皆無であり、そして尚且つ俺と向日葵が「0」⇔「1」の二者択一性を含有しているとすると1/2の確率で俺は睡眠中に向日葵であることが可能になる為、シュレディンガーの猫のパラドクスを抱えることとなる。つまり立証は不可能。ただし、瞼の存在を認識出来たということは、向日葵に瞼がないことが明らかなことから、解答としての可能性は幾分減ると考えられる。


仮説:弐:瞼を開けた瞬間から向日葵であった


上記の理由からこれも立証は不可能と位置づけられるのだが、向日葵の瞼の有無を考慮に入れることにより、仮説壱よりは信憑性がある。瞼を開けるという行動を遂げた暁に俺はこの向日葵という体を手に入れたというわけだ。つまりスイッチ、瞼を開けるという引き金を引くことにより俺は向日葵となり新しく起動する。


仮説:参:俺はそもそも初めから向日葵であった


自己認識への不確定性から俺は人間を俺という向日葵に定義していたという仮説は考えられるが、しかしながらこの記憶を改竄することは可能なのかという疑問も生まれる。それこそ脳の海馬における電子パルスの伝達という脆弱なものとしか考えられないという反論はあるかもしれないが、何より向日葵に脳があるとは思えない、否、俺は考えている、葦ではなく、俺という向日葵が考えている


グレゴールが虫に変身を遂げたとき、確かに奴は考えていた。それが報われたか報われなかったかは別問題としても、少ない頭を絞り人間としての尊厳を保とうと考えていた。しかしながらそれは、自己認識を持っているのは悪だけであるというカフカ自身の言葉通り、「人間=悪」を我々に突きつけたかっただけだったのだ。故に「考える向日葵」である俺が自己認識を得ていたという事実がそこに存在するならば、「向日葵=悪」が成立する。


人間だけが重力の方向に抗っているという。


絶えず上に向かって堕ちたがっている人間と、絶えず太陽を目指して首をかしげそして伸びていく向日葵は一種の共通項を持っていると言えるだろう。俺は向日葵になることで人間ではなくなったが、人間としての特殊性を捨てるには至らなかったのだ。



ねぇ、君はなんで向日葵なの?



もし田園あぜ道を自転車で過ぎ去る女子高生に言われたらこう返そう。



俺が俺であり向日葵である理由は何もない、そしてそれを貴様に問われる云われもない、敢えて理由を説明するならば貴様もこの腐った土壌に浮かぶ向日葵同然だからだ、尚解釈を美しい方向に持っていき楽観視するのはお勧めしない、貴様は単なる人間という存在であって、それは暗闇というディメンションに咲く健気な華ではないからだ、貴様は、否、我々はただ上に向かって伸びているように勘違いしながら堕ちていく向日葵、太陽へ首を傾げては揺れている向日葵というメタファーに過ぎないのだ。



それから毎日のように栗鼠が茎を登っては種を齧り、降りてはまた登ってくるので俺は種無しになった。いつしか入道雲は遥か彼方へ走り去り、夏が終わりを告げる、太陽という莫大なリソースを失った俺はそのまま枯れる、フェードアウトする、太陽に溶ける、キスする、乾杯する、そして


少しだけ太陽と俺、どちらが丸いのかを考える。