百合属性
ところで、なにやら各所で小生の位置する中学生という要素が女子中学生はてなと呼ばれる無駄に淫猥な響きで興奮を促す儚き媒介を通じて流れている様子で、某所では年齢詐称疑惑まで出る始末、それが単なる無知を曝け出す所業と理解をしていながらもどこか遠くの世界で起きた事件を眺める気分なのであって、夢物語を通じてバルザックの本質を暴き出す過程を楽しむ俺をただただ叩きのめす。
中学生という要素の何処に魅力を感じ、何に対して憧憬の念を抱いているのか理解に苦しむが、そこに意味はない、つまり俺は作品を上納し貴様らはそれを何の感慨も持たずにひたすら読み続ける、それこそ至上の幸福であり、作家としての喜びであると感じるのだが、それは到底不可能、何故なら俺自身が既にその位置に存在するという情報を衆人環境に晒しているからだ。
綿矢某が以前発表した史上最悪の悪徳小説が世にも素晴らしい興行成績を上げ文学界を震撼させたころ、彼女は高校生、そして容姿端麗、それはそれが単なる通俗小説であろうが歴史に残る大作だろうが、売れることを義務付けられた小説であった。容姿端麗あの齢にしては良いものを作り上げてたという一つ上の視点から見た感慨、つまり猿回しの芸、もの珍しさから日光江戸村猿軍団を観光する観客の視点、コンシェジェルリーで項垂れるロベスピエールを見下す看守の視点。
それでは件の中学生の姫君はいったいどのような反応を示しているのか、そして話題の女子中学生とはどういった存在なのかという興味からその日記を繁々と見つめてみたのだが、この腐った卵のごとき語彙が彼女の麗しいコミュニケーションスキルに明らかに劣っているという意見が的を射ている、というのが容易に理解出来た。そして己の将来性が皆無なことも。
なにより谷間の百合は孤独を意味する、コミュニケーションなど取りようがない。
統計学的に見た場合、雄の精神年齢が雌のそれと比べて低いというのは定説で、上記のような該当文章を書き上げた俺という存在こそがそれを助長している。コミュニケーションスキルの不足もそれを連想させ、どうやらアフォリズムを引用したがるのもその年代のせいのようだ。そして、その告白をすることで俺は俺自身を位置づける。俺を中学生という存在から解き放つ為さらに俺自身を定義する、つまり
全ては無に回帰する。
たれもこのあはれ短き玉の緒に
乱れて物を思はずもがな
一つ残ったものがある。
藤原定家は、短き人生を恋で乱し悩みたくなどないなどと悪びれもなく詠ったようだが、どうやら俺は恋をしこの短い人生に一石を投じてしまったらしい。恋の最初の溜息こそ知恵の終わりとはよく言ったもので、この俺の人生に迷いをもたらした女子中学生を恨んで止まない、そして恋して止まない。
セネカは孤独と群集が両者それぞれの救いとなり、前者は群集への嫌悪を癒し後者が孤独の退屈を癒すと説いた。孤独が人間への憧憬を強いものにすると定義したのはニーチェ、対してサルトルは実存主義との狭間で、孤独は群集のなかで己のみを選択し、それには不安が相伴うと定義する。俺は俺自身を愛するナルシズムの中、つまり不安=荒れ果てた谷とすることによって、俺は不安を伴いつつひっそりと群集を嫌い世の中を定義し続ける。そこに咲いたもう一輪の百合の花と…。
そうか。
こうして我々は群集にも回帰するのか。
と思ったらあの方はさらに麗しかった。人の心は移ろい易いものだ。
登場人物リンク:
女子中学生 変態ぽいが変態ではないらしい
あの方 二号
参考リンク
批評 無駄
男子中学生 愛してる
中学生大好き 上に同じ