彼女について 二

ヘリウム核が原子核融合を起こす、南極の氷が静かに融ける、子供の足が地雷で吹き飛ぶ、遠くで銃声が聞こえる、猫が足早に目の前を通り過ぎる、このリアリティ。夕方の歌舞伎町。


どういうわけだか知らないが、彼女はガムが好きなのであって、というよりもガムの匂いを嗅ぐのを趣向としているようで、もっぱら俺はガムを毎日のように口に突っ込まれていくのだが、それよりも彼女が好むのは、俺の学校の校庭の木の下、橙に染まる空の下、そんな場所で俺と交わる行為の重要性であった。俺がここ数年間通い続けているこの忌まわしき校舎の裏手にはガムの製造工場があり、そこから発せられる独特な甘い香りが彼女の性欲を刺激するという至極明快な理由も付随している。


校門で待ち合わせ行為を楽しんだ後、帰宅途中に必ずといっていいほど寄る歌舞伎町のイルミネーションの狭間、俺と彼女はひたすら暮れかけていく太陽目指して歩き続ける、追い続ければもしかしたら夜にはならないのではないだろうか、という一種の淡い期待を込めて、必死に歩く、たまに走る、そしていつの間にか暗い世界が辺りを支配する。だが決してその行為をやめることはしない。光を追うことを諦めることが何かの終わりを意味することであると信じて止まない我々は、ひたすら足を前に進める。


帰路につく為山手線の内回りへ乗車しようとすると、彼女が俺の袖口をギュッと掴む。暫くその体勢を保持していた我々に無常のベルが構内に鳴り響く。押し寄せる人並みが俺を車内の奥深くへ押し込み、一定の間を置き電車は出発する。ここまでがルーチンワーク、日常化された一連のプロセスもここで終わりを告げ、そして同時にまた日常がここから始まる。終点であり始点である二人の別れ。


日常に依存した生活を送っているケースとして、それを打破するのは難しいと考えられる。しかしながらそれは、ある観点からすれば、その日常に依存している人間たちが自らの力で破壊するのは困難であることが言えるが、第三者ないし外からの圧力によっては非常に脆いものであることが判るだろう。


例えば我々は、外で日常的にセックスを行うという恐らく他人から見た場合常軌を逸した行為をしながらも、行為の最中は一言も発せず何の感慨もない、少なくと俺に限れば何もない、つまりそれはエリアーデが言うように、性が未だ聖体示現であり、尚且つ綜合行為であり、それ故に認識手段であることを意味しており、日常の枠組みから外れることで日常を形成するという手段を取っているのである。


非日常で囲まれた日常、それは単に自らの脆さを第三者にアピールしているに過ぎず、最も過酷で険しい道でありながらそれを永遠に自覚することが出来ないという或る種の矛盾は、痛みを認識できない人間が多大なダメージをこうむり知らぬ間に死に至るその過程に似ている。俺は気付かぬ間に死への階段を上っていたのだ。


そんなある日の行為の最中、木にもたれ掛かる彼女が荒い息で俺の耳元に囁きかけた、ねぇ、こうして私たちが何か意味があると思っているものを育んでいる間に猫は目の前を通り過ぎるし、子供たちの足は地雷で吹き飛んでいるんだよね、俺は自分でもよく判らないような愛想笑いをして彼女をまだ柔らかい芝生の上に寝かせる、空を見上げた格好になった彼女は続ける、でもそれは一つのリアリティであって単なるファンタジー、つまり殆どの人は何かの媒体を介して―例えばテレビとか―自分たちの日常を非日常で囲っているわけで、それによって日常を形成しているわけだと思う、ほら、少しの間目を閉じて、そして耳を塞いでみて、ガムの香りが漂っていくるから、でもこれも一つの幻想、きっとあの工場の中ではガムの匂いに似せた香りを排出する装置を作っていて、日夜私たちを騙すのに必死なのよ。


ガムを噛み続ければいつしか味が消え失せる、そしてそのガムは捨てられる、だがこの学校で俺と時を同じくする限り匂いだけは消えない、それは宛ら淡く少しづつ消えてく人間のようで、匂いはそこに必ず存在した事実を映す俺か彼女の記憶のようなものだ、と彼女はよく喩えていた。だがカートの如く燃え尽きた彼女はガムというより、突然爆発したあのガム工場のようなものだ。永遠に続くと思われていた麗しい匂いも、今となっては昔のこと。全ての具象はいつしか消える運命であるということから彼女は目をそらしていたのかもしれない。



緩やかな傾斜の学校へ向かう坂道、そんなことを思いだしては俺はガムを吐き出し銀色の紙に包みこむ。