19世紀

ムーランルージュの隅の席に腰掛けフレンチカンカンを眺めながら、俺はゆっくりと右手を掲げロートレックに乾杯、勿論宵の口にギムレットは早すぎる感が否めない故杯にはアブサン、パリに住む俺たちの相場は決まっている。


フレンチカンカンの舞台で舞う踊り子が白熱灯に照らされ浮かび上がる白と黒のシルエット、退廃的な空気は淀んだセーヌ川の上を流れ、ブランシェ広場を通じてモンマルトルを駆け抜けその踊り子に凝縮される、その一連のプロセスが或る種一つの芸術性だと信じて止まない糞芸術家どもがこのパリを跋扈し、そしてアブサンを飲み、ゴッホよろしく耳を切り落とす。


火曜日にはマラルメの会合に招かれ、アブサンの杯にくちづけしながらイデと聖歌が形成する全ドラマ或いは神秘について語り、そして騙り、夜が更けるとモンマルトルの墓地でスタンダールに祈りを捧げる、ドビュッシーを聴けば古典的音楽を虚仮にし、ひとたびガルニエでスワンレイクを鑑賞するに至るとチャイコフスキーの甘さに酔いしれる、それが一種のステータス、誰しも退廃的である自分に溺れ、前衛と古典の狭間で溶けていくアブストラクトな人間性を誇りと感じ、自らを切実なオブセッションを抱えた哀れな子羊と思い込むことで自我を保っている。


ある日、いつも通り俺がパッシーの自宅で「ゴリオ糞爺」という腐った人間がいつまでも一人で腐り続け最後には他人の手でダストシュートに投げ込まれるという、どう仕様もない悲劇性を含んだ物語を金の為に仕方なしに書いていると、オスカーワイルドがドアをノックした。


アブサンを飲む俺に奴は言い放った、初めの一杯の後お前はお前自身の希望を垣間見る、次の一杯の後にはその逆を見届ける、最後にお前は現実を突きつけられそれがこの世で最も最悪であることを知る、それがアブサン、それでも尚お前は退廃的な自分に酔いしれるのか、その言葉に俺は溜息を吐き、俺は奴の口の中に『一銭も支払わずに債権者を満足させ、借金を帳消しにする方法全十課』を押し込む。モゴモゴ言うワイルドの顔が少しづつ紫色に変色し、泡が口の端から噴出する。


まあ落ち着けよワイルド、貴様が糞幸福の王子様からちまちまと宝石を運んで最後にその美しい人間性によって薙ぎ倒される現実性を愚かな餓鬼どもに突きつけている間に、俺はというこの世の中の摂理を乗り越える為にせっせと夢物語を書き続けているのに対し、それでも尚貴様はまだ俺が現実の最悪性を知らないとでも言うのか、アブサンを定義するにバタイユは聖女の溜息を例に取り昇華をイメージしたが、それは貴様が例にとった現実と同じだ、原理はな、ここで貴様の人生が終わりを告げるのまた現実、隣のパッシー墓地からドビュッシーが這い出てくるのも現実、ほら貴様、見てみろよ俺の視点でな、窓から見えるあの墓標を、あれが貴様の最後の場所でもある、それこそが現実、貴様の口に咥えている本が貴様を死に至らせるこのリアリティ、つまりこうだ、



十九世紀を省みるに貴様は退廃的なイメージに捧げられたオマージュを見る、延々降り続く雨、週末まで溜りに溜まった手紙、窓から見えるコンコルド広場、そして淡い色合いのアブサン、もしかしたら貴様はそこに処刑され断頭台の露と消えたダントンの面影を見るかもしれない、だがその夢の跡を辿るに貴様はその世界へ旅立ち理想化された現実を知る、誰もがナルシズムを追求し、誰もがそれに溺れ、そして誰もが溺れていないと思い違いをしていた時代、



そんな時代のひと時。