一人の天才

村上龍町田康、そして安部和重、この三方との類似性について先日指摘を受けたわけだが、一重にそれは正解であり、しかしながら不正解でもあるわけで、確かに類似性の面での否定は俺に出来るわけがないのだが、一つの観察点から観るに問題は影響、俺という文学―或いは世界―そのものへの影響が最も著しかったのは「小沢健二」であった。

一般的に言った場合、小沢健二という名前は或る種の羞恥心を刺激し、尚且つ懐古心をくすぐる媒体として認識され、既に終わりを告げ流行から取り残された人間の代名詞として使われることが多い。さらに言ってしまえば名前を出すだけでなにやら哀しい響きを持っている。しかしながらその評価は一面的でしかない、と言わざるを得ない。


小沢健二と小山圭吾がフリッパーズギターとして若干二十そこらで作り上げた音楽シーンは、フリッパーズギター以前/以後というポップスとしての区分が必要とされる程、後のアーティストに大きな影響を与えたのは周知の事実であるとして、しかしながらそれは、アズテックカメラやパステルズと言ったネオアコースティックと呼ばれる流れを組んだ単なるファッショナブルを重視した世界観だけではなく、その詩の無意味さと不可解さが評価されたことに目を向けるべきである。

それは小西康陽も指摘するところの、誰にも書けない詩であり、メッセージ性を完全に排除することで得られる一つのロマンティシズム、それは現在世界の評価を欲しいがままにする小山田圭吾も認めるところであり、そして小山田自身のファーストアルバムの評価が著しく低いのも、詩の部分で明らかに小沢に喰われていたからというのが定説だ。それはまるで、村上春樹を読んだ糞読者どもが、その後村上文体を引きずってオリジナリティのある素晴らしい文章を書けたと錯覚するのと同じ構図を模しており、そのレベルに小沢がいること意味する。

しかし貴様らは理解できまい、すれ違うことをセオリー化するという一連の行為に象られたジレンマを、自らメッセージ性を廃棄しそれを声高に主張することによって得られるカタルシスを、永遠続くドーナツトークを、デパートのスターコレクターを、メキシコの混線電話を、貴様らは永遠に理解できない。何故なら俺にも理解できないからだ。理解を求めない強さ、向日葵は揺れるだけのように、揺れることで何かを求めてはいないのだ。



人は分ける

  上と下

    右と左

      陰と陽

        善と悪

完全にどちらかである人なんて絶対に居ない

 僕らは混然とした存在

   混然を受け入れるってのは難しい


そして


脳は

 或いは機能は

  それ自体をあるがままに受け入れず


白黒つけてゆく


そうすることで物事は簡単になるから


        ■ 偶然のナイフ・エッジ・カレス

        ■ アズテックカメラが定義する分断され続ける世界


認識ってのはあまりにも二者択一で本当にくだらない

  光は全ての色を含んで未分化
           

        ■ 無色の混沌


  それはそれのみとして分けられずにあるもの

切り分けられていない  混然とした  美しく大きな力




それが人の心の中にある




それは小沢健二が目指した、カテゴライズされ続ける世界からの脱出を意味し、或る種、生命の肯定でもあった。世界は貴様らの理解の遠いところにあり続け、しかしそれでもその個体それぞれが保持する混然とした意識、カテゴライズを拒否続ける価値観、そしてそれが含有する意味―しかしそれは意味と言える意味を持ち得ないのだが―は次の言葉に全て表されているだろう。



左へカーヴを曲がると光る海が見えてくる

  僕は思う この瞬間は続くと 

    いつまでも






ブラヴォ。