ゆく河の流れは


    絶えずして


       また元の水にあらず



盆の堤を越え止め処なく溢れる続ける液体は血。ゆっくりとそれでいて力強く、決して鉄砲水のように勢いがある訳でも津波のように一時の静けさが内在している訳でもない、それは宛ら大河の如し、何者にも阻むことが不可能な或る種煌々とした絶ゆ間ない流れ、荒れ果てた夢の跡で孤独に蠢く儚い流れ。


覆水盆に返らず、その言葉を反芻するが如くソレは地に降ることを止めず、揺ぎ無い決意はまるで動き続けることを義務付けられた波のよう、しかしそこに永遠が存在しないのと同じくして絶えることのない具象は現実的ではない、いつかソレを吐き出し続ける母体は細胞の再生に終止符を打ち、そこで生命は終わりを告げる。


例えば血友病が齎す哀れみは、我々が生命活動を営んでいく過程において得る何か―或いは廃棄する何か―に酷似していると言わざるを得ない。下卑た民衆が作り出す下らない価値観とそれを渇望して止まない利潤が交差する蓮の葉のような広がり、狂気の中で戯れる我々が選択する抽象性の間で揺れる一つの連続した繋がり、或いは流れ出したものは止まることを知らないという一つのサイクルの破壊、それらは我々が生み出した破綻が再生へと変化することがないことを暗示し、尚且つ我々の業の深さを示峻している。


つまり言いたいことはこうだ、貴様らが抱えるオブセッションが貴様ら自身をいつの日か蝕み、やれ適者生存やれ弱肉強食を唱える者ども纏めて地獄へ突き落とす、この世に強きも弱きもない、あるのは無限に続く苦しみ、それは一つの贖いと言える。血を垂れ流し、回収もせず、搾取し続けた上で貴様らは再生を訴える。だがそこに意味はない。自分だけはそのサイクルと繋がりを持ってリペアしようと必死なのだと意思表示することで正義という名の自己満足を行うのだ。いかに鴨野長明が低脳で世界を楽観視していたか、現在の最悪を考える前に次を最悪だと勘違いするオプティミズムの間違いに気付くべきなのだ。



でわ、最後に、貴様らが歯車から漏れたばかりに全ての苦しみを一挙に背負うことになったこの『盆』の次の行動を代弁しよう。



朝は死の灰昼過ぎから蛙の雨、夕方頃が煉獄、夜には血が吹き零れるでしょう。精々今日という日を省みるに、夜の一時をお楽しみください。それでは、地球から中継でお送りいたしました。ごきげんよう



ピー。