安部という文体。

生まれて初めてコメントを貰ったと思ったら、村上龍町田康と安部和重を足して割ったような文章などと言われる始末、前者二人は一つの正解、しかしながら糞安部を足された俺の心を推し量ってもらいたい。

奴が芥川賞とやらを受賞して俺が批判したいというわけではないのだが、安部には深い憎悪のようなものがある。それは安部初期のポストモダン的な小説から虚構と現実が合いまみれる糞なファンタジー世界に転換するに至ったことを批判したいということだ。そこで奴に俺を重ねるという行為自体に憎悪を抱く。

安部という存在が初めに我々に提訴したのは、文学・音楽・絵画、その全てが揃った一つの芸術作品としての「映像」を作りたいという理不尽な欲望を、その中の一要素でしかない「文学」に転写することだった。つまり蓮實重彦文体を取り入れることによって世界を他者の観点という境地から判りやすく―或る意味判りにくく―叙述し、一つの物事から別の物事への関連性を見つけることで繋がり、いわゆるシネフィルム的な物語のサークルを作り上げることを目的としているのである。

この一連の動作は、ベンヤミンが唱えた「物質と人間の共演を示しうる初めての手段」が映画であることを位置づけ、その共演を、閲覧者とスクリーンの間でも関連付けたことにより、寺山修司的でもあるのだ。

しかしながら、文学について加藤周一は「経験を、その抽象的普遍性においてではなく、具体的特殊性において、表現しようとすること、またその表現が作者の世界の全体に対する態度を前提として含まざるを得ないようなものであるということ、この二つの特徴を備わった言葉による表現こそが文学である」と述べており、その意味において安部が具体性を保持しえない文学を否定する「アメリカの夜」「ABC戦争」までの前衛さは評価に値するのだが、それ以降の「インディビジュアルプロジェクション」での抽象的特殊性とでも言えるようなライトさと華やかさには何も言うことができない。

時として華やかさは単なる具象を引き起こす或る種の商品としての価値以外の価値観を得ることができなくなり、安部文学はここに終わりを告げたと言っても過言ではなく、彼が破棄した普遍性と得ることが出来た具体性によって安部は文学に成り下がったのだ。

ということで、俺が安部から得るものなど何もなく、ましては文体に影響が出るなどということは有り得ないことであり、しかし安部の小説を一度でも読んだことのある人間が俺の駄文を読んでいることに至福の喜びを感じ、或いは吐き気を催している。

すなわち何が言いたいのかというと、

これが安部氏の文体である、ということだ。