ロートレック

ある日俺が電車の中で再び「くたばれ健康法」を読んでいると、椎名さんが俺の前で奇妙なダンスを披露してくれた。訝しがる俺を尻目にくるくる回る山手線の中、椎名さんは永遠と踊り続けた。

三時間ばかりが経った頃、俺は「くたばれ健康法」を読了したのと、あまりにも熱心に踊り続ける佐藤さんの顔がちょっと青くなっているのに気付いたのとが相まって、ねぇ椎名さん、そろそろ休んだ方がいいんじゃないかな、と提案したところ、あんたには亜麻色の髪の乙女あたりがお似合いなのです、と言い放ち椎名さんは窓からダイブした。

品川埠頭の手前あたりのことだ。

不条理と戦い続ける一人の女の子が決断したことは、ロートレックが人生を謳歌するため故意に自身の意思を隔絶する行動をしたというプロセスの一つとしてムーランルージュに通ったという逸話と原理を同じくする。ロートレックが描いたポスターから呪いの重圧を感じない愚鈍な人間を消し去る為に乙女は不条理と戦い続ける、ということだ。つまり、自分が社会という枠組みに囚われる以前、既に不条理という或る種の抽象性に取り込まれる恐怖を多少なりとも否定する、そこに自身のデカダンスを求めるというプロット、そこに全てを集約させるのだ。

俺は頭の中で亜麻色の髪の乙女を浮かべた。

ドビュッシーが奏でる美麗なピアノ旋律の中、木の葉は舞い、木々の枝は揺れ、その全てに西日が当たり、どこからともなく俺の視界に入ってくる。つまり、一億五千万キロメートル離れた遠近感すら定かではない遥か彼方の場所で、四つの水素原子がヘリウム核に形を変え原子核融合反応が起こりエネルギーを発し、そして秒速三十万キロメートルの速さであらゆる物に反射し波動を伝え俺の目の中に飛び込んでくる。その全ドラマの中で僕は全ての存在を認識し、確実に捕らえた、と誤認する。確かにそれは誤認であった。俺は何も認識できず、ただ認識したと勘違いしていただけだったのだ。

俺たちはいったい世界の何を認識しているのだろうか。

世界は美しく、永遠に続く。光速度で広がり続ける無限の宇宙の中では、あらゆる物が存在し、或いは存在せず、パラレルワ―ルドが続き、たとえ俺がここでたった今存在を否定されたとしても、どこかに続くパラレルワールドの中でまた違う、それでいて同じ俺が生き続けており、そして同じ可能性でまた俺は存在を否定されるのだ。


否定された俺と乙女と椎名さんは全ての意味において中立的だ。