かメ人間などという、この腐っている世界の中でさらに自分自身の腐敗を進行させることを心に誓ったような異能の者が作り出す或る種の掃き溜めのような場所が俺という人間を刺激して止まないのであって、その「死」についてのアブストラクトな観念を考慮するに至っては「無」を得る理論を導き出した。

死は無の始まり、糞エピクロスがメノイケオスに宛てた手紙で「私が存在する時には死は存在せず、死が存在する時には私はもはや存在しない」などと死を恐れるあまり定義するに至ったが、確かに死の存在がその死を甘受する人間にとってはもはや意味のないものだということは往々として理解されるべきものなのであって、その意味での死の定義を否定するわけではないのだが、それが終わりを意味するかはまた別問題なのであり、死は一つの還元だ。

俺は俺の存在すらも支配できない。

これは死と無の定義に置いて夢のある言葉だ。なんだかんだと言って、その世界が存在する限り貴様の残した何か、それが喩え腐った卵のメタファーの様な糞みたいな(しかしそれは真実糞なのだが)ものだったとしてもだ、それは確実に後世に実をもたらす。貴様の糞は永遠に何かのしがらみとなって何処かで生き続ける、記憶というものに喩えることも出来るし、物理的に単なる養分といっても差し支えない。貴様の定義は貴様が押し付けるものではない、客観視から始まるのだ。

生は死の発端であり生は死の為にある、つまり生は終焉であると同時に始原であり別離であると同時に一層近しい自己完結である、死によって還元が完成する、貴様、よく見てみろよ貴様の(トントン)胸の辺りをよ、注射針が刺さっているだろう、三秒ほどしたらそこから血が噴出すよ、カラスの口から内臓が飛び出すみたいにな、ぴゅー、って、そしたらそれで貴様は終わりさ、此岸での貴様の定義は終わった、そうしたらどうする、貴様は彼岸でなかよくうようよと蠢く死者どもと暮らすのか、それともリルケが言う大きな統一体とやらで仲良く使者どもと暮らすのかい?

世界を消滅させようなんて考えるな、事態はそこまで安易ではないし、もし世界がなくなったとしてもそこに第三者的な観点が存在する限り世界はなくならない、つまり俺たちに無を確認する方法が無いってことだ。その意味ではサルトル君ですら純粋な無を捕らえることの不可能性を否定している。だが貴様らは勘違いしているよ、無はその存在の規格否定を越えて無なのだ。

ちょっと冷蔵庫を開けてみる、中から麦茶を取り出す、ゆっくりとな、そしてそれを口いっぱいに含み三回に分けて飲み干す、麦茶をしまい冷蔵庫をを閉める、その行程が終了したらちょっとばかし空を見上げてみろ、五秒ほどでいい、空に飛ぶ鳥を眺め空気を感じろ、群青色に染まったそれにひれ伏せ、貴様は五秒間で恐らく全てを感じ取った筈だ、そしたらもういいだろ?なに簡単なことさ。ダイナマイトをその場で爆発させるんだよ。

あらゆる規定は否定。


それが無だ。