□ファブリース


「君が考える愛というものが判らないから少しばかり旅に出ます」というような事を吐いて恋人が去っていったのも今となっては昔のことだが、そんな日は壁に掛かっているアインシュタインのフォトグラフを見ては真似をして舌を精一杯出す。そうやって斜に構えたり、世間に対して陥穽を敷いたり、愚かであると理解しながらも我々は日々を背に生きてゆく、それが人生であると知っているから。


それでもって、舌を出した為なのか、そうでないのか、正確なところはよく判らないけれども、決まってその後はコークを一気飲みしたくなって、真っ暗な部屋で一人冷蔵庫を開け瓶のコークを二酸化炭素の塊ごと喉に流し込む。どんなに辛くても、どんなに噴出しそうになって絶対に諦めないでシュワシュワと泡立つ液体を胃に押し込む。飲み終わった瓶をまた冷蔵庫に戻して、口についた泡を拭って、ちょっと気を落ち着かせる。


そんな時出るゲップに『ファブリース』は似ている。冷蔵庫の灯火だけが暗闇を照らす薄暗い部屋の中、一人でするゲップは酷く爽快で、自分が世の中の一部であることを少しの間だけ忘れさせてくれるのだ。