月までの短くて長い距離



「世界なんて壊れてしまえばいいのに」


って、梟も鳴きだして蝙蝠もその辺を飛び回るような真夜中、学校の屋上から叫んでみると、いつの間にか僕は月の光を浴びて変身した狼男になったみたいな気分に襲われる。厭なことなんか全部忘れて、さらばこのクダラナイ世界、屋上から飛び降りて人生にもおさらば、僕はめいいっぱい雨傘を広げてこの美しき地球へとダイブした。


たぶん、僕が地球への華麗なダイブをしていた時間は、たったの1.3秒だ。別にこれはSEIKOのストップウォッチとかで計った正確な時間じゃなくて、僕の体内に埋め込まれている鳩時計、通称フランクミュラが告げた時間だから、恐らく間違っている。訊いた話によれば、僕のフランクミュラは【平均的日本人が一本のマイルドセブンを吸い終わる時間】を29秒で刻んでいるし、【平均的観点からすると幸が薄い日本人が生まれてから死ぬまでの平均的時間】を754321985秒で刻む。この二つを元に、一秒を割り出しているらしいので、あまり正確性は期待できない。


普通、1.3秒、って言ったら短いだろうか。


それとも長いだろうか。


僕がこの長いのか短いのか、一概には判断出来ないような1.3秒の旅に出ている間に、夜の向こう側から梟が翼を広げ僕の周りを三回ほど回って、それからゆっくりとした口調で話しかけてきた。


「やぁやぁこんにちわ、そろそろ世界が終わるって聞いて普段は人語を解せないように振舞ってきたこの梟さんもあなたに話しかけに来ましたよ」「そうなんですか梟さん。僕は凄くラッキーだなぁ。なんと言っても梟さんに初めて話し掛けれらた人間に選ばれたんですもの」「それはそれは光栄な。ところであなたは1.3秒後には世界が壊れてしまうのに何で地球に向かってダイブしたのですか」「それはそれは梟さん、ダイブって言ったら僕の夢だったんですよ、夢、だからダイブしたんですよ」「それは納得、でも寒いから風邪をひかないようにね」「ありがとうございます」


それから、それでわ皆様ごきげんよう、と言って梟はまた夜の中に溶けて消えていった。僕は嬉しくなった。あの夜の向こう側に住んでいる梟さんからエールを貰ったのだ。嬉しくない人なんているわけない。思わず僕は空中でスキップを踏んだ。口笛も吹いた。冬の乾いた空、僕が切っていく風の中で、緩やかな音が響き渡る。


それからしばらくして蝙蝠までも飛んできた。


「こんにちわ、蝙蝠です」「知ってますよ」「あら、私には冷たいんですね」「そうでもないです、蝙蝠さんのことは凄く尊敬しているんです、なんだかシュールリアリスティックで」「私も見るとみんなそんなことを言います、でも私だって少しはリアリズムから抜け出してファンタジになりたいんですよ」「もうすぐ世界が壊れるのに」「そう、もうすぐ世界が壊れるのにです」「じゃぁ僕と仲間ですね!」「本当ですか!じゃぁ一緒にダンスをしましょう」


そう言って蝙蝠はダンスをし始めた。僕はそれに合わせてヴァイオリンを弾いた、曲は、モンティで、チャールダッシュストラディヴァリウスの淡いストリングスがフォルテッシモを奏で始めるころには蝙蝠の愛情表現は最高潮に達し、僕の右手も軽やかなリズムを弾き出す。僕と蝙蝠、蝙蝠と夜、それから世界とか、そんな統一性のない、東京の街みたいな僕たちは、いつしか一つになって、ビートを刻む。軽やかなステップが!溢れる感情が!ほろ苦い青春の1ページが!


こうして、アスファルトまで、あと3メートルになった。


「今日は楽しかったです」と蝙蝠は言った。


「いえいえ、僕もです」と僕も言った。


蝙蝠はなんだかバツの悪そうな顔で、そろそろ行きます七つの子が山で待っているので、と言った。それはカラスの話ですよ、と僕は言いそうになったが、黙っていた。その代わりに、蝙蝠さん僕はあなたのことを一生忘れません、と言った。蝙蝠は、少しばかり顔を赤らめ、また闇の一滴となった。僕は青春の23ページ目に、蝙蝠を、書き込んだ。


あとは、ただ、地面に到達するだけだ。


たぶん、それで、世界が壊れるだけだ。


僕は、37センチメートル先に迫ったアスファルトにキスを試みた。


月の光が地球に届くまで、1.3秒かかるという。


この、1.3秒は、とてつもなく長い。


そんな、気がする。