接吻

西日が山の彼方に姿を消してそろそろ夕焼けと闇の境目かもしれないし或いは既に俺は闇に取り込まれているのかもしれない否俺の人生こそが闇すなわち俺はこの場所に居てはいけない存在でありだからこそどこかへ行こうそうだ新宿アルタ前に行こう、というような趣旨のメールが柴田から携帯に送られてきたので授業終了のベルと共に学校を新宿に向けて出発、アルタ到着早々、てめぇ遅刻じゃねぇか糞野郎っ、と柴田に飛び蹴りを喰らい、隣に佇む女子高生たちがケラケラ笑った、六時三十七分、真夏の夕涼み。


理由も何も知らされないまま、俺と柴田と件の女子高生二人は歌舞伎町近くに建つカラオケ館に吸い込まれていった、手際良く受付を済ませエレベータを経由し小さな部屋へと入り込む、そして座る、それら全ての過程に於いて四人は無言を通していた。


各自が無言で席に着き、だらだらとした時間を15秒程過ごすと堰を切った様に柴田がぺちゃくちゃと喋りだした、「ところで紹介がまだやったようやなこの小さな男の子が**君ねほら挨拶せんかい」「こんにちわ**です」「はいはいオーケオーケでこの女の子二人はなんと天下の女学館の同い年であるえーと、ぉ蘭ちゃんと葵ちゃんねはいはいよろしくぅ、よろしくは?」「よろしく」「よろしく」「よろしく」「じゃぁ早速歌ってみようぉ」。


流行りのラブソングと下らないポップ音楽が密閉された小空間を回りに回っては小汚い痰を吐き出し上海ハニー、茶色掛かった髪の毛を上下させる女の子たちが凝視する箱はどうにも流れるメロディとは無関係の虚しい映像を目まぐるしく映す、誰もが自分の順番を待ち焦がれ、誰もがそれ以外の時間を自分の為に使う、俺だけが静かに座ったまま遠くを見つめる。


ねぇ**は何か歌わないの、曲よ曲の合間を縫って隣に座っていた女の子が突然甘ったるい声で俺に話しかけてきた、俺は答える「昔偉い人が言ってたんだ、カラオケとカラオケが付属している飲み屋の違いについて、それは歌ってる人の歌を聴くか聴かないか、つまりそういうこと」「それってカラオケでは皆他人の歌を聴いてないってことかな?」「うん、それで僕は誰かの為にしか歌わないって決めてるいるし、ここでは皆自分の為に歌っている、だから僕は歌わない」「ふーん、**って面白いね、よく判らな」彼女の声は唐突に鳴り出したメロディに掻き消された、彼女はマイクを取りながら顔に満面の笑みを浮かべ俺を見る、俺は彼女の瞳を見た、じゃぁ私の為に歌って、そう唇が動いたような気がした、気のせいかもしれなかった。


一曲だけ魔法の箱へ送り込んでみる。



□哀しみの果てに


□何があるかなんて


□俺は知らない見たことも無い


□ただあなたの顔浮かんでは消えるだろう



二分三十四秒、その短い時間の中、俺は彼女を見つめ、彼女は俺を見つめる、ただそれだけで良かった、ただそれだけで俺と彼女は何かしらを理解し、或いは理解したと誤認していた、淡く心地好い空気の狭間で或る種の理想を相手に押し付けあいながら我々は恋に落ちたに違いないと考える、彼女はしきりに想いを寄せる、誰かの為にしか歌わないと答えた糞野郎が下手な歌を自分の為に披露してくれたなんて素晴らしいんだろう、俺は考える、俺は誰かの為にしか歌わないそして俺は彼女の為に歌った俺は彼女に恋してる俺は彼女を愛してる俺って素晴らしい、糞喰らえナルシズム。


誰かがマイクを取ってはマイクを置き、そんなことが幾度と無く繰り返されたかと思っていたら、閉ざされたこの空間の中からは知らず知らずのうちに件の彼女と柴田が消え失せており、未だ俺とは話したこともない女の子が一人マイク片手に歌っていた、暫くすると俺の視線に気付いたのかマイクを机に投げ捨て俺の方を向き、二人はトイレに行ったよまぁもう帰って来ないと思うけど、と含み笑いで言った、そして付け加えた、私たちもお外にでましょうか。


お空がラプソディを深く吸い込んで、繁華街の夕闇は綺麗です、お月様が人生にちょっと疲れて、繁華街の夕闇は真っ暗です、雨が降り出しそうな空に雲だけがプカプカ、やんわりと白を主張していて後は黒だけ、我々が歩く速度に合わせて周りに在るイルミネーションたちが滲んでさよなら、無言のまま肩を並べて歩いて、信号で止まる。


キスしよっか?


彼女は俺を見ないまま言った、俺は彼女の唇を凝視する、どうだろう、このまま俺の唇が彼女の唇に接触したとしたらどうなるのだろう、キスは我々の心を奪う極めて力ある危険な行為だ、とはソクラテスの言葉だが、いったい如何にして心を奪うのか、何に対する心を奪うのか、俺そのものが奪われるのと心だけが奪われること、どちらが難しく辛いことなのか、それに対して思いを寄せる、そして妄想する、顔を二十度ほど傾け唇を重ね丁度良く口を開ける、その隙間から舌を絡ませる、ねっとりとした粘液が両者の喉元を行き来する、そんな妄想をする、俺は彼女の問いかけに対して頷いた、キスしよう。


●→○


信号が赤から青へと変わって雲間から水滴がちらり、降りだしてきた雨が小さな雫を俺の唇に落としてロマンティシズム、俺は雨とキスした。