生と死のアプリケーション

死とは何か、それは人間が未来永劫追い求めていくことを義務付けられた一つの枷、すなわち人間或いは生物全体はその鎖で以って縛られ、そもそも初めから自由を奪われているという形態を経て我々は生物であることを定義される、基本的に曖昧模糊とした我々の人生において明確なものであり、得てして受動的である。


ところで俺は車に轢かれた、二週間ほど前のことだ。


通り過ぎる車がテールランプを光らせて信号手前で止まる一連の動作、それが実は我々、すなわち歩行者とその他交通手段の信頼関係で成り立つ意味のないルールであることを認識させてくれた貴重な体験、高架橋下、上野の日光街道、とある交差点、信号が青になったのを確認してゆっくりと前進する俺は次の瞬間フェードアウト、やがて白く統一された俺の視界は赤く塗られていき、俺はそれが頭から零れ落ちる糞ったれな血だということに気付くのだが、気付いたところで出血は止まらない、流れ出る血液の速度は遥かに凝固する時間を上回っている、まるで血友病


白い画面はやがて暗闇へと転換していく、□→■、暗転、意識のずれから俺は夢を見る、遠い日の夢のように感じた、否、はたしてそれは遠い日の夢だったのか、もしかしたら最近の出来事を夢として頭の中で描いただけなのかもしれない、ただ、それはモノクロームの様相を象っていたのは確かで、どこかその風景は白と黒だけで完結し、尚且つ白と黒だけがその風景を維持していた。


今でもはっきりと覚えている、一人崖の上に立ち尽くし海に浮かぶクラゲを見つめている俺、海だと思っていた空間がいつの間にか真っ白なホテルの屋根になり代わり俺は崖から飛び降りる、だが崖から飛び降りる俺は飛び降りている過程を見ることはできない、まるで誰かが崖を飛び降りるのを観るように俺は俺が飛び降りる瞬間を崖上から見守るだけ、自分が自殺する瞬間の記録映画を見る心境と似ているかもしれない。


グシャ、という何かが潰れる音が聞こえたような聞こえていないようなそんなタイミングで画面が変わり、俺はホテルの一室で一人佇む、綺麗に整頓されたベッド、まだ旧式のテレビ、窓から見える景色はやはり海、一瞬ファングリスの絵を意識してしまった為か、俺はギターになったような気がした、海を前にしたギター、だがそんな俺の儚い想いすら瞬時に打ち消す絵画が壁に掛かっている、ゴヤ、あの腐れゴヤと言えば普通「マハ」の絵などを思い浮かべるだろうが掛かっていたのは「我が子を食らうサテュルヌス」、首を千切り喰うサテュルヌスが哀しげに俺を見つめていた、俺も物憂げに奴を見やる。


しばらくの間俺とサテュルヌスで睨み合っていると突然ドアが開き黒ずくめの老婆―その格好から一番連想しやすい具体的な人物像は「魔女」―が入ってきた、入ってくるなり老婆は何かを俺に尋ねてきたのだが声にはなっていない、しかしながら俺は老婆が何を言っているのか理解した、鼠を探していると言っていたのだ、俺は言った、鼠は死んだ鼠はその窓から跳ねて死んだだから鼠はいないつまり鼠を探す理由はない、老婆は両手を頭の上に置き、降参ですよ!といった調子のジェスチャーをして部屋の外へと戻っていったが、今考えると単に慌てていただけなのかもしれない。


何故なら窓の外で老婆が落ちるのを次の瞬間見たからだ。


もし無意識の欲求が夢を作り出す或る種の鍵と為るならば、いったい俺はその白と黒の世界でいったい何を求めていた?生きる強さか、死への願望か、どちらかと言えば俺は「死」への憧憬の方へ重きを置いていた気がしないでもない、つまり白と黒のモノクロームな世界観、それは俺に、大切な人の死を悲しむ葬式のあの日見た鯨幕を連想させる、美しき鯨幕、続いていく鯨幕、「死=黒」「生=白」と仮定することで浮かび上がる交差する生と死の連続性、すなわち万物の流転、俺はその中の一部分であり、白から次の黒へと向かうことを間違いなく意識した、白と黒の境界線、灰色=鼠。


そこから思考するに「老婆=死」「ホテル=生」とも考えられる、すなわち「死」は「境界線」を探し「生」のドアをノックしてまた出て行く、「死」→「境界線」→「生」→「境界線」=「鯨幕」、さらに海を人類、否、生物の原点と考えるとループの始まりと終わり―実際は始まりと終わりは存在しないのだが、それがあると仮定する―に生物の原点を置くことが出来る、我々は海から始まり海へと還っていくという一つの美しい式が出来上がるのだ。


おいおい、フロイト式の糞夢判断にはもう飽き飽きなのですよ、こじつけ捻じ曲げられた事象をぐねぐねと混ぜ合わせて出来上がった無意識からなる俺の欲望はセックスだぜ、なんてそろそろお開きにしまして俺はベッドの上でゆっくり意識を取り戻す、なんだか頭の上でパチンパチンいってやがるね、なんて気楽に思っていると、白衣を着た男が俺の頭にホッチキスを当てがい針を埋め込んでいる最中だった、プス、プス、プス、俺の皮膚は柔軟に針を吸い込んでいく、この傷は残るよぉーゲラゲラゲラ、と男は俺に向かってにっこり、完璧な笑顔^^。


一通りの処置を終え、手にはギブス頭に包帯と重装備を施された俺の身体は言ってみればフランケンシュタイン、このまま叫びながら街中を徘徊すれば怪物そのもの、なんてことにはならず、恐らく俺は頭を打った可哀想な患者として施設に入れられるだろう、それもまた一興、だが俺にはその辺を歩き回る体力さえ残されていない、ただベッドの上で点滴を受けながらジッとしているのが関の山、俺は三日間の入院生活に入った。


入院生活一日目から自称石井めぐる似のお姉様や久方ぶりに会うお父様が現れ俺を見舞った、お姉様は豪華絢爛な花束を置いて花瓶に入れた、白を基調とした頭の悪そうな病室という空間に黄色のそれは程なくマッチする、もうこんなことがないように気をつけてね、と少し涙を浮かべた目で言って夕日の中去っていった、お父様といえば一言、死は最上の友人、と残して病室を後にする始末、ベッドに横たわる俺は一人死と生について考えを巡らせる。


夜になると痛みとそこから派生する吐き気が俺を支配した、麻酔が切れたのだろう、ということは頭では理解しているのだがどうにもならない、ジッと深い眠りが枕元を訪れるのを待っていたのだが、それは遠い未来の気がする程酷い痛みだった、突然ホッチキスの感触が蘇る、パチンパチンパチン、俺の額を覆う皮膚を貫通し肉と肉をつなぎ止めるホッチキスの針、その針が肉に突き刺さる瞬間をどうしても想像してしまう、俺はその場で床に吐寫した。


なぁ貴様、貴様も想像してみろよ、ホッチキスをさ、なんなら本物のホッチキスを手に取っても構わない、そして自分の額に当てて先端を押し付けパチンと一押ししてみろよ、貴様は容易に肉と金属のコラボレーションを肌で感じることが出来るはずだ、ゆっくりと押し込まれていく針が肉を押し込んでいくその感触、血が素敵に排出されていく姿、素晴らしい光景だと思わないか?少なくとも死を考える上では有意義だ、俺は額にあるホッチキスの針を、包帯越しに指で触るだけで俺は死を身近に感じ取れる。


俺は間違いなく死に触れた、或いは触れられた、と。


ただ不思議なことに俺はホッチキスの針を触っても、あの糞医師が朝巡回しにきても、事故のこと自体を思い出すことはなかった、そのことに気付いたのは三日めの昼過ぎ、学校の先輩が現れてからだった、俺は強制的にしろ何にしろ事故当日のことを話さずにはいられない、そしてそこで初めて俺が事故について何も考えていないことを認識した。


例えば走馬灯、これは昔から俺自身が知りたかったことでもあるし、皆様も似たような欲望を持っていると思うのだが、人間は死を意識した瞬間走馬灯を見るという、印象的な過去の場面が脳裏をよぎり人生の最も素晴らしかった日々が8㎜映画のコマ割りのようにスクロールするというのだ、これについて如何とするか、難しい問題だ、俺が見たものが走馬灯なのかそうでないのか、俺にも実際よく判らないからだ、しかし正直なところ、俺は死を確実に認識していた、これは第一前提、以前大切な人間を交通事故で亡くした俺にとって、車との衝突=死、という方程式が頭では存在しており、たとえ車に撥ねられたことを頭で理解していなくても細胞レベルでそれについて反応していた、つまり生命の終焉を感じていたのだ。


すなわち走馬灯を見る権利が俺にはある。


以下一通りお見舞いの言葉を交わした後の俺と先輩の話抜粋、まず俺:


「死というものに触れて死というものについて俺は考えたんだが先輩は如何に考える?」「ふむ、それは中々難しい、死について考えるということはすなわち人間について、もっと大きな単位でいうならば生物について考えるのと同じだ、我々はいつも自分たちの形而上学について考えてきた」「つまり死=人間ということか、それとも死は人間の友人なのかということか」「それは微妙だ、だが取り合えず単位を小さく生物との関係を追いやって見せると、死=人間と考えた方が上手く答えは見つかるのかもしれない」「つまり時間的価値の問題が人間に直結するということか」「それもあるが、つまりは違うプロセスから起こる人間の矛盾が死の矛盾と直結しているということだと思うね、死の矛盾については判るね?」「望まないのに起こる最も身近な存在、不自由な自由、曖昧な明確、俺にとっては白い黒でもある」「確かにそう考えることが出来ると思う、これはお前の思考と恐らく同じであると思うし、尚且つ、お前の夢と走馬灯の話にも関わってくる」「走馬灯ね…」


走馬灯の話に一旦戻るが、俺が死を意識した瞬間見たのは交通事故で亡くした大切な友人だ、もし望むのなら恋人と言っても差し支えない、俺は車と激突した時、或いは激突し終わった後なのかもしれないが、とにかくその恋人を見た、従来の言葉をオーソドックスにそのまま使用させてもらうのなら、それは「三途の川」であったと俺は考えている、一つの境界線とも思える彼岸から俺を見る彼女、俺はそんな光景を確かに見た、勿論交通事故という同一性から単に連想したという発想も出来るし、実際俺はそうであるとも思っているのだが、これこそが走馬灯の一種なのかもしれないと感じることもしばしば、その判別は難しい。


先輩:


「つまりお前がその走馬灯を見ている時、何を思ったかが死の重要な部分を握っていると僕は考えているわけだ」「何を考えていたか?そんな何かを考えている暇が俺にあったとは思えないが…、或いは…、もしかしたら俺は死を願っていたのかもしれない」「そうだ、僕もそうだと思う、それこそがお前の言う死へ憧憬だ、死を求めるが死へ恐怖が常に存在する日常の中で我々は死を遠くのものと割り切る、だが突然自らに襲い掛かる死に対しては反射的に歓迎してしまう、恋人を見て死にたいとお前は考えたんじゃないか?」「死への憧憬、死ぬ瞬間にこそ死を願う、確かに或る種の矛盾だ、死を望んだのかどうかは正直曖昧としか言えないが、死んでもいいとは思ったかもしれない」「とどのつまり、死後の世界で恋人と一緒になりたい、そう思ったということでいいかな?」「恐らく」「そこが論点になる」「?」


「僕が考えるにそここそに矛盾が生じているのさ、すなわちお前は恋人を見て『死にたい』と考えたのに、死後の世界で恋人と一緒に『生きたい』と願ったわけだ、同じプロセスの中で矛盾を包括しているその思考こそが人間であり、いわゆる『死』だ、例えばお前は夢の中で生物の源である『海』へと飛び込むシーンがあったが、それも一つの矛盾だ、なんていったって生の原点へと自殺するのだからね、ファングリスのキュビズムゴヤを対比したのもそこに帰結すると思う、いや、これは別にフロイトだとかユングだとかそういうことを言っているんじゃない、どちらにせよ、つまりは我々の欲望の如何に関わらず、我々は矛盾の中で生きているということだ、或いは矛盾の中で死んでいると捉えても全く不思議ではない、人間が矛盾を通して生と死を映しているように、生と死も矛盾を通して人間を捉えている、だから僕はお前の好きなノヴァーリスを支持しない、死によって還元が成立するのではない、全く正反対のもの同士を行ったり来たりして永遠と帰結することがないのが死であり、死は自己結合しない、矛盾という留め金の中で人間は死―或いは生―と同化するのだ」



死は俺を恐怖に陥れ、同時に恍惚の世界へも導いた、なるほど、生きることが病であるとはよく言ったもので、それこそが我々の矛盾を唯一説明しているのかもしれない。


先日ゲームセンターとやらに行き、とある格闘ゲームをやらされたのだが、俺好みのハードロックが流れるバックグラウンドミュージックの中、黒い影を纏う男が敵を倒した時に残す台詞が非常に印象に残った、曰く:


「貴様が死んでも尚生きるというのに」


俺は二度と死ぬことも生きることも出来ない人間の矛盾と虚無感、そして不条理がそこにあると何故か一人思っていた、そして多分そういうことなんだろう、と今でも思っている、生と死のアプリケーションはいつでも矛盾で構成されている。



斜陽が窓から差し始め、カラスも山に帰る時間になったということで、そろそろ帰るわ、と静かに言って先輩は身支度を整えた、重そうな手提げ鞄を握り締め、赤く染まった白い部屋のドアを開け外へ出て行くとき、俺の方を振り返って先輩は言った、にっこりと。



「もう、死ぬな」