少女の憂鬱:弐

俺=外見女:基本事項


例えば俺という人間に対して「少女」という記号を与えてみる、長い睫毛だとか、虹彩を放つ大きな瞳だとか、少女であることを主張する胸だとか、そういうこと、記号化された存在は外観のみならず社会的変化をも遂げ、つまりは体裁的制約による圧力から「俺→私」「ジーンズ→スカート」「営業→お茶汲み」等、古来から受け継がれる風習慣習価値観への隷属をを余儀なくされる、これは一つの必然性、我々は必然性の中で臨機応変に対応する。


人間の雌が社会の中でとっている形態(女)は、文明の全体が雄と去勢体の中間産物を創り上げ、それに対して女という名を与えているだけである、とボーヴォワールは書いた、それは一つの正解である、カテゴライズされ続ける必然性を伴っている我々が相対的な指標を以ってして他人を認識し、そこに役割性を与えた結果「人⇔非人」の間に「女」という曖昧な役職を設けただけ、空に浮かぶ星々に星座という名前をつけるみたいに。


つまり女という存在は、形態ではなく形式であり、すなわち社会性であり、人格ではない、我々が女であると認識、或いは応対していた物体こそ我々自身の精神と言っても差し支えない、我々は自分自身の価値観(しかしながらそれこそ我々が何者かによって創り上げられてきたものなのだが)を相手取り、やれこちらの物体はXであり、あちらの物体はYである、と定義付けてきたのだ。


ところで、俺の家にやってくる女どもは何故か全員セックスを求めてドアをノックする、その行為を最後の結果として残すが為に部屋へ入る、否、それは恐らく行為に至るまでの会話やら俺が与えるだろう愛情やら何かしらの確証を求めての行動かもしれないのだが、結果として残るのはセックスだけだ、何故なら俺からはそれ以外の何も得られないからだ。


勿論、というよりも社会的善の立場から、俺の人間性が腐っているということは理解できるし、それは事実だ、だが現在の問題はそこではないと共に彼女たちもそれを理解している、ということであり、つまりそこで俺の頭を掠める疑問は、何故我々の結果として残るものがセックスだけであることを理解しているのに対して彼女たちは尚俺を求めるのか、ということだ。


快楽か、一つの理由になり得るだろう、しかしそれだけが理由ならば俺のような金もなく圧倒的に経験も少ない人間を選ぶことはしない、すなわち彼女たちは敬意の腐った代用品を俺に与える見返りに、利子をつけてそれを返せと要求し、尚且つ、現在の状況が改善されると確信して疑わない、そしてそれが間違いであることを理解すると、決まって性急に借金を返済するように主張するのである。


俺は先ほど「女=形式」であると述べたばかりだが、俺自身の中にも絶対的な意味合いで「女性」という価値観は確実に存在している、要するに俺の中での女性像こそがそれだ、俺にとっての「高利貸し」、だがそれも言ってみれば問題ではない、彼女たちにとってそれぞれの考え方がそこには渦巻いているからであり、そしてそんな時こそ奴らは何を考えているのか、という疑問が沸々と浮かび上がってくるわけだ。


俺は少女が描かれた書き物を読み漁り、俺の周りにいる女どもを観察した、奴らの思考を覗き見た、その結果導き出された一つの指標は、女というものは社会性を重視するのだが、尚且つ突然社会性を破棄する行為に出る、その矛盾の中に存在していることが判った、他にも、男という存在がどちらかというと意思を以って自らの境遇を開くの対して、女は運命を重んじその境遇を受け入れる、つまり男は個体的であるが女は種族的であることが判った、嘘だ、判っていない、何も判っていない、それこそ奴らが創り上げた偶像だ。


貴様よ、女という名称(ここは男ですら構わない)は範疇としてのアイデンティティを持ち得るのか、それとも単なる実体のない貴様らの虚妄か、一つ俺が判っていること、それは、その昔俺の中で女性がする行為全てが聖体示現であったということであり、今となってそれも俺の周囲の環境が創り出した想像の産物であった、ってことだ。



なんてことをずっとベッドの上で考え夜を明かし、そして気付いた、胸に膨らみがある、そしていつもは存在している筈の物がない、そうか、俺はオンナノコについて考えている余りにオンナノコになるというアリキタリな状況に出くわしてしまったのか、これで俺はカテゴライズされた女の気持ちを理解できるのだろうか、そして女になれるのだろうか、もし女という存在に範疇としてのアイデンティティを付与できるとしたら、俺の現在の精神に関わらず俺は女というものになれる筈だ、と俺はそんなことを考えた。


服を着替え、真昼の街に出向く。


ジッパーを閉める音が響く。


ジジジジジジジジジジ。