不自由と自由(四十件)(22:34)

我々は【不自由】を求める。


人間は近代において神からの離脱を指向してきた。神の制御下を離れ、本来持っている自由を求め、社会運動が活性化し、いくつかの戦いと争いが起こった。多くの犠牲者を出したそれは、いつの日か実を結び、我々は自由を得ることに成功したのだ。


ところで第一次世界大戦後に作られたワイマール憲法は、世界初の社会権による自由を認めた憲法だ。その斬新さは、世界でもっとも民主的な憲法であると言わせしめ、ドイツ国民は、自由を、手に入れたかに見えた。


しかし残念ながら、ドイツ国民は自由を手に入れることは出来なかった。


それは勿論、ヒトラの台頭である。ファシズムが国民の自由を奪った。何故か。そこには、多額の賠償金による国民の不満などの問題があったに違いない。しかし、それだけとは私は思わない。


ヒトラは、こう、演説したという。


「私にお前たちの自由をくれ、代わりに、私が、お前たちの責任を持つ」


自由には責任が生じる。我々は自由が欲しい、しかしながら責任は出来る限り負いたくない。だから時には、自由より不自由を求める。自由を捨てることでドイツ国民は責任をヒトラに転嫁し、そして不自由になったのだ。


責任のある自由。


責任のない不自由。


あなたならどちらを取るか。