Stairway to heaven


或る日彼女が、【天国への階段】を買ったの、と言った。


夕暮れ時にキャンパスを歩いていると、【世界浄化委員会】という奇妙な団体が怪しげな広報活動を展開していた。仮設テントの周りでは数十人の人だかりが出来ており、穏やかな顔で演説する男を囲んでしみじみとしていた。


俺がその様子を眺めていると一人の女性が走りよってきて、よかったら見ていってください、と広報誌を渡してきた。遠慮しながらも見つめるその女性の瞳が少しづつ潤んでくるのを感じて受け取らざるを得ず、喜んでまたテントの方へと戻っていく彼女を尻目に、仕方なく誌に目を通した。そこには【天国へ行ける方法、その正しい手順】と大々的に描かれていた。


それからである、別段俺はその宗教染みた団体に興味を持ったわけではないのであるが、本部と銘打たれた大学内にあるうさぎ小屋のような部室へと足しげく通うことになった。勿論彼女の潤んだ瞳が忘れなくなってしまったためである。彼女の名前は早苗と言った。苗字も確かに聞いていた気がしたが覚えていない。早苗はいつも明るくしていようと自らに架しているような人間で、常に笑顔を絶やさずにいようとしていた。このようないかにも怪しい部会に立ち寄る彼女と、その表面を撫でるような明朗さが俺の心を強く引き寄せた。


その【世界浄化委員会】の委員長は端正な顔とどこかブルジョアジな響きを持ったテノールで甘く囁く出来た男であった。常識と博学を身に纏い、常に紳士的な態度で誰にでも接した。男はどうにしろ、委員会に属する女性の方々は皆彼に惹かれていることは一目瞭然であった。恐らく早苗もそうではないかと思う。彼を見るその羨望の眼差しは、単なる憧れというよりも、恋する少女に近かった気がする。


彼は決して自らの名前を明かさなかったが、他の委員には【熊沢氏】と呼ばせた。或る日俺が、何故熊沢を名乗っているのか、と聞くと寂しげな口調で、私は常に白い目を感じている例えばただ大学構内を歩いている時でさえもね世界浄化委員会という物が単なる悪辣な宗教であると彼らは私を批判するのだよ、と言ったあと、「熊沢天皇を知っているかな、彼は南朝最後の天皇と言われた後亀山天皇の子孫と自らを謳い、戦後、正統の天皇は我にあり、と主張し話題になるも敗れ去り、寂しく生を全うした哀れな人間だよ。彼はGHQに踊らされた単なるアルレッキーノ、もしかしたら私もね」と俺に訴えかけるような目を向け、やがて部室を後にした。次の日からはまた普段の熊沢氏に戻っていた。


いつの間にか俺も構成員になってしまい、いたって普通に広報活動に精を出すようになり数ヶ月が経った頃、委員会の飲み会があった。ほとんどと言っていいほど下戸の俺は、もっぱら他の委員の酒の世話に終始していた。ある人は泣きながら天国に行きたいと叫び委員長に嘆いていた。ある人は踊りながら、熊沢天皇万歳、と裸踊りを始め、熊沢氏を困らせていた。ある人は俺に、神様っているよねいないわけないよね、と延々と同じ内容の問いを繰り返しては、うんやっぱりいるじゃん、と嬉しそうに頷いていた。早苗は隅に横たわり、たまに吐瀉物を吐き出していた。真っ赤な顔を俺に向け、***君でへへぇ、と甘い声で囁いた。


そんな夜だった。


骨の髄までアルコールを浸透させた早苗を駅まで送るため、山手線が通る寂れた小さな街を歩いていると、俺の肩に寄りかかった彼女が、ねぇ私ね***君ほんとうは内緒なんだけど実は天国への階段を買ったんだいいでしょ、と耳元で言った。駅に着いてから、見送ろうとする俺に改札口の中から、外で手を振る俺に、見せてあげようか、と手をメガホンよろしく声を張り上げた。



「ねぇ、ほんとうに君だけなんだからね」玄関で俺は靴を脱いでいた。初めて上がる彼女の家はなんだか鼻をくすぐるような匂いがした。「それは光栄です」「ほんとうに光栄なことなんだからめちゃめちゃ人生の自慢にしていいよ、あっ、でもほんとうに自慢はしちゃ駄目だよ」「それは約束しますよ」「よかったよかった」そう言って彼女は破顔した。火照った頬が赤く染まっていた。


家は二階建ての質素なたたずまいではあったが、彼女一人が住むには広すぎた。廊下の壁にはヘンリーダガーの絵が飾ってあった。「ヴィヴィアンガールズ好きなの?」俺がしばらくの間絵を眺めていたからか、彼女が尋ねてきた。「彼女たちの戦いの軌跡は、なんというか興味をそそられるものがあるかもしれないですね。ただ、好きか嫌いか、と問われれば、嫌いと答えるのが筋かもしれない」なるほどね、と彼女は呟いた。「ヴィヴィアンガールズの戦いの軌跡は私の戦いの軌跡でもあるわ、だってそうでしょ、ヘンリーダガーの孤独は私のでもあるんだから」ねぇ、そんなことより***君は私の家が一人暮らしには広すぎるとか思ってるんでしょ気になってしようがないでしょ、と指を俺に向けて笑った。


無駄話なんてよして早く天国への階段を見せてあげる、と言う彼女の後を追って階段を上った二階の一番手前のドアが早苗の部屋だった。彼女の部屋に入ると、そこは普通の女子大生の部屋の形態を維持しており、ピンクのレースに包まれたベッド、小さな木の机、女性誌が詰まれた本棚、そういった物が乱雑に配置されていた。彼女は急いでクローゼットの方へと走っていくと、手をこまねいていた。俺は静かに歩み寄る。「これだよ、これ」彼女がクローゼットの中から取り出したものは小さなハシゴだった。


ハシゴじゃないですか、俺がそう呆れたような感想を漏らすと彼女は頬を膨らました。ただのハシゴじゃぁないんだよ天国へのハシゴ、ハシゴだって立派な階段でしょ。そう彼女に言われると、確かに単なるハシゴも多少は神聖な物に見えた。俺はハシゴと彼女を見比べた。ハシゴを持つ彼女と、彼女に持たれているハシゴ。二つは、重なり合って今にも消えそうだった。


このハシゴね、実はさ、委員長から貰ったの、と言っても買ったんだけどね、結構高くて百万円もしたけど、でもね、安いもんだよね、だってたった百万円でどんな罪も許されるんだよ、それなら安いものじゃない、お金で解決できるなら安いものじゃない、そうでしょ?


早苗のあの少し切れ長の瞳、少し潤んだあの瞳、初めて出会ったときのように一粒の雫がそこには浮かんでいた。俺は堪らず彼女をベッドへ押し倒しその涙を舌で拭った。丹念に、綺麗に、後から後から溢れ出てくる塩と水を舐め取っていった。もれる嗚咽を無視しつつ、縁取るように、睫毛から頬へ、頬から唇へと、いつしか俺は彼女の火照った全身に唾液の軌跡を残していった。


彼女はその間動かなかった。



事が終わると彼女はしきりに俺に質問した、***君はどういうご飯が好きなの、***君はどんな女の子が好きなの、***君はなんでこの委員会に入ったの、そんな他愛のないものばかりだったのであるが、俺は丹念にその質問に答え、そしてまた次の質問が来るのを静かに待った。いつしかその質問をする声が小さくなってゆき、隣から寝息が聞こえるようになった。先輩はどんな罪を許して欲しいの?半分夢の世界へと旅立っている早苗にそう問いかけると、ゆっくりと手を俺の首に回しながら、内緒、とはにかみながら言った。


俺の口からは自然に言葉が漏れた。


「ねぇ、俺と付き合ってくださいよ先輩」


「駄目だよ、私、委員長のこと好きなんだもん」


「駄目なの?」


「うん」


「そっか」


ところで、昔の欧州の方々は免罪符という得体の知らない代物を求めて協会に寄付の形で大金を献上していたらしいのであるが、俺にはその気持ちが判らなくもない。というのも、金というものは大体において最終的に何も残らないものであるし、そんな紙切れを手渡すくらいで【罪】が許されるのであれば、いくらでもくれてやるからである。それが単なる欺瞞であり、自己満足であってしても、どうせ生きている内が華だ、たとえ思い込みであったとしても何も棺桶には持ってはいけない、それが罪の意識ならなおさらだ。


多分彼女は百万円で何かしらの罪を許されたんだと思うし、だからこそ最後に俺に自慢したかったんだと思う。罪が許されて晴れて自由の身なんだということをアピールしたかったのだろう。俺にはその気持ちは理解できるし、頭の中で整理も出来ている。しかしだ、しかしである、それでも俺は朝起きたとき、目の前にある光景が信じられなかったし、今でも信じたくはない。信じることと、理解すること、それは全く以って別次元の問題なのである。


早苗は、【天国への階段】の傍らで、静かに首を吊っていた。



それからどうしたのか、と言われてもどうしようもない。別に何事もなく事態は収束へと向かっていった、それだけだ。早苗の葬儀はしめやかに行われ、委員会の皆は出席し彼女の早すぎる死を嘆いたが、喪主と思わしき彼女の叔父を自称する男以外に、親戚から線香を上げる人間はいなかった。それが何を示しているのかは皆薄々感ずいてはいたが、誰もそれを口にしようとは思わなかった。むしろ、俺が彼女を自殺に追いやったのではないだろうか、というような噂が流布されており、それで浮き足立っていることの方が目立っていた。熊沢は、人の言うことなど気にするな、と何故か俺を励ました。


その後も俺は大学へと行き、次第に委員会からは遠ざかり、その時間を使ってバイトをいくつかこなした。時間は常々感じていたように足早に過ぎ去り、半年もすると誰も早苗という人間のことなど思い出さなくなる。そうやって人は都合よく物事を処理し、現実に対応していく。それは別段誰が酷いとかそういったことではなく、摂理なのである。哀しみを背負ったままでは、皆、生きてはいけないのである。




そして今、俺は久しぶりに委員会の部室への道を歩いている。


渡り廊下に差し掛かった辺りで空から小さな水玉がいくつか落ちてきた。


その降り注ぐ雨に手をかざし空を見上げると、雲と雲の切れ端から一瞬天使が見えた気がした。


天国でも雨が降っているのだろうか、とふと思った。




ポケットには福沢諭吉の束が100枚ほど詰まっている。


これから俺も天国への階段を昇るつもりだ。