林檎のある風景

頂が咀嚼された林檎が縁側に一つ。


鴉か雀か、はたまた隣の庭石に腰掛ける可愛らしい少女か、何処のどなたかは存じないが誰か心無き者が林檎のてっぺんのみを喰らい縁側に置いていったのは確かで、そこにあるのは頭のない真っ赤な林檎という滑稽な代物、それも長い間放置されたとみえて実が変色し、見るも無残などす黒い空気を周囲に演出しているのであり、それだけならまだしも、頭の方から蛆虫どもがわらわらと覘いているのである。


「ねぇ」少女が俺に向かって尋ねる「何であの林檎をあのままにしておくか判る?」まるで新しい玩具を得た子供みたいに無邪気な表情で囁きかける。俺は首を横に振り、判らないよ、というジェスチャをした。正直、蛆虫が湧き、腐り切っていることが容易に見て取れる林檎を家屋に放っておく神経も、それに何かしらの付加価値を与えようと俺に質問する意図も理解できなかった。だいたいからしてこの少女と出合ったのは、たった半刻ほど前のことなのだ。



まだ宵の口、午後九時頃。仕事帰りに総武線のラッシュに揉まれ、地下鉄に乗り換え帰路に着こうと秋葉原で降りた駅のホーム、ふと空を見上げると青白く丸い月がそこには浮かんでいた。本日は中秋の名月ですよ、というような台詞を、ニュースキャスタが満面の笑みで早朝から叫んでいたような覚えも薄っすらとあるので、あぁ、これがそういったものなのか、としばし惚けた顔で首を傾いでいた。ここ何年かは仕事仕事と忙しく、月を見るのはおろか、空でさえ久方振りに見たような気がした。最後に月を見たのはいつだったか、と試しに考えあぐねてみたがよく思い出せなかった。


これが果たして何かを知らせる為のアナウンスであろうか、というような嬌声を駅員が上げ、ドアがゆっくりと閉まり、列車が目の前を駆け抜けていく。そんな当たり前の出来事がホームでは何回か繰り返し行われ、その間もずっと空を見上げていた。一面漆黒に包まれた中にある一つの光、なんだか吸い込まれていく感覚。薄い青を総じて空色と言うが、ではこの暗闇はいったいなんなのだろうか、とふと思う。この闇も空色だろうか。


それからどれくらい経ったのか、何時間も惚けていたようにも思えるし、五分かそこらにも思える。電車が通り過ぎていく感覚が大分あったので、恐らくかなりの時間が過ぎていたのだろう。「お兄さん大丈夫?」疑問符が付いて、多少尻上がりになった言葉を突然投げかけられ我に返った。振り返ると後ろには十代半ば程の少女が笑みをこぼして立っていた。虹彩を放つ瞳が、光の中チラチラと舞う埃の様に輝いていて、口元には薄っすらと紅が塗ってある。そんな人形のような少女が俺に微笑みかけていた。「お兄さん大丈夫?」繰り返される言葉。「えぇ、なんとか大丈夫です」やっとのことで答える俺。「それならいいけど…」うーん、と少しの間少女は考えるような素振りを見せ「もしよかったらうちで休んでいかない?私の家ここから五分くらいなんだよね」勿論お兄さんが望むならだけどね、とはにかんだ微笑で付け加え、彼女は言った。



そして俺は現在、彼女の家の庭石に二人で腰掛け、月と腐った林檎を肴にしながら談笑に華を咲かせている、というわけである。これはこれで悪くはないシチュエーション、いつの間にやら夜も深く更け、月の回りには雲が差し始めてきていた。


「そういえば気分は良くなったのかな?」少女がにっこりとした表情で突然言う、まぁ、それなりに、と俺は返す、そして沈黙が数秒程、彼女の息遣いが聞こえてきそうな静寂の中、なんとなく俺は林檎と彼女を見比べる。綺麗だ…、という言葉が自然に漏れた。きょとんとした顔で彼女は俺を見つめ、そしてけらけらと笑った。


「私は林檎って好きだな、お兄さんは嫌い?」おどけた調子で彼女は俺に問う。「どうだろう…、好きでも嫌いでもない、ただ甘く多少の栄養になる、ただそれだけ、というのが正直な感想。だけどあの林檎が好きとは言えないな。腐った林檎は喰えないし悪臭を放つ、何よりあの蠢く蛆虫どもが気味悪い」ここで一呼吸、「とにかく、如何なる理由があろうとも、あの林檎は捨てるべきであると思うね」俺はきっぱりと言った。だいたいからして、腐った林檎をそのまま屋内に放置しておくのは尋常ではない。これは単なる趣向とは別の問題である。


そこで彼女は庭石から離れ、縁側へ歩み寄り、林檎を手に取った。数百匹からなら蛆虫がうねうねと月の弱い光に照らされ蠢いている。「林檎はね」右手を空にかざしながら彼女は続けた。「林檎は腐りかけが一番美味しいんだ」そう言って彼女はゆっくりと林檎を持った右手を口へと持っていく、ゆっくりとゆっくりと。そして実も皮も剥げた頂点からかぶりつく。蛆虫どもが口の中でプチプチと爆ぜる、黄色い液体が体内から排出され、彼女の口の端から溢れ出ていた。零れ落ちる林檎の実と蛆虫ども、林檎のとも蛆虫どものともつかない液体が彼女の真っ白なTシャツに垂れ織り成すコンポジション、それらが一体となって俺の中のイメージと重なる。その間俺は何も出来なかった。


やっとの事で、あぁ…、だとか、うぅ…、だとか呻き声を漏らし、そしてそれで尚呆然と立ち尽くすしかない俺を見て彼女は近づいてきた。頬張った林檎を丁寧に噛み砕き、味わい、飲み下す。半開きになった口からは、歯に挟まった蛆虫がもがいている。しかし、そんな無駄に気味の悪さを助長する光景よりなにより、雲が掛かった朧月を背景に、妖艶な微笑を浮かべる彼女を俺は忘れることが出来ない。美しいと簡単に形容出来るほどの生易しいものではなかった。それは、とてもこの世のものとは思えないパーフェクトな笑顔といえた。


そして彼女は俺に優しくキスして言った。


ね、美味しいでしょ?


生暖かい感触が腹の方に広がり、目を遣ると果物ナイフが刺さっていた。



それから随分と年月が経ち、俺も林檎同様腐りかけてきている。どうにもこうにも恥ずかしい話なのだが、今となっては俺は首だけしかない既に人間とは呼べない代物に成り下がっているのであって、縁側に置かれた花瓶の上にちょこんと活け花よろしく挿されている。ちなみに頭の上の方は切り取られ、むき出しになった脳味噌の皺の間には蛆虫がたかり、もぞもぞと気ままに俺の細胞をつつくので、酷い鈍痛が俺を毎日のように襲う。切り口から垂れる茶色っぽい汁が俺の顔を赤く染め、それを見た少女は、なんだか林檎みたいで可愛いね、と言ったので、最近は自分の事を林檎であると思うことにしている。そう考えるとこの生活も楽しいものだ。いつ喰われるか、いつ喰われるかと、自分の番がやってくるのを嬉々として待つのである。


首だけにされて長い間放置されている俺だが、気が向くと彼女は俺に話しかけてきたりする。今日の天気についてや友人のこと、季節の話もあれば、ゴキブリを追いかけて隣の町まで行った話など、一度に数日間の話を崩れのように俺に向かって吐き出す。その間は始終にこにことしており、俺の脳味噌に指を突っ込んでクチュクチュとしたり、しきりに蛆虫を爪で潰してその体液を俺の眼に吹きかけたりして長い間楽しそうに話している。そして決まって最後に「お兄さんは何かしたいことがある?」と言うので俺が「そろそろいい具合に腐ってきたよ」と答えると、不機嫌そうに去っていくのだ。


花粉が目に染みる頃、今日はお兄さんの誕生日だよね、と言って絵本を買ってきた時もあった。花粉がしみて目を開けることが出来ない、と文句を言うと、私のプレゼントが気に喰わないんだそうなんだだから花粉のせいなんかにして本を見てくれないんだ、と喚き散らし泣き出した。仕方がないので俺が、そんな事はないよ、と優しく言うと、嬉しそうに絵本を開き読み出した。


それは百万回死んで百万回生きた猫の話で、酷く残酷なストーリであった。猫が人間の道具にされては事故などで死んでいくゆき、死んでも死んでも猫は生き、それが永遠と続くというようなプロットだった。俺は辟易していたが彼女はまるでそれに気付かないように読み続け、最後のページを繰るところで手を止めた。「今日はここまで」何故だか哀しそうに笑う彼女に俺は尋ねた「何故最後まで見せてくれないんだい?」「だって最後まで見たらこれからの楽しみがなくなるでしょ?せっかくの楽しみなんだから最後まで取っておかなきゃ、って思うよ」その時俺はなんとなく納得したのだが、結局それから彼女が俺に絵本を語り聞かせることはなかった。


そんなふうに時はゆっくりと、それでいて確実に過ぎ去ってゆき、毎朝彼女が見るニュース番組が『中秋の名月』が今日であることを告げた日の夜、とんと俺の前に姿を現さなくなっていた彼女が、珍しく俺に話しかけてきた。雲一つない空に満月が浮かんでいる、そんな日。



「ねぇ、お兄さんはなんで私が話しかけた時ついてきたの?本当に気分が悪くて休みたかったの?それとも私とセックスできると思った?」俺の脳味噌を撫でながら彼女は優しい声で言った。俺は少し考えてから答えた。「生きているということは非常に不可解で、不思議であるとしか思えない。例えば今俺はまだ生きているが、生きているという感覚はない。チェンソで首だけにされ、皮膚は腐り、挙句の果てに蛆までたかる始末、確かにあの忌々しい蛆虫どもが俺の脳味噌をついばむ度にそこはかとない実在感を手に入れるが、それしたところで『生きている』という感覚とは別のものだ。もしかしたら俺は腐るという目的の為に存在を許されているのかもしれないし、または違うかもしれない。ただそういった問題の前に、あの日、俺が月を見ていた瞬間、『生きている』という感覚があったのは事実なんだ。それに対して君が見せる微笑はそういったものを全く感じさせなかった。もしかしたらそのコントラストが俺をここまで引き寄せたのかもしれない、ただそれだけだよ」俺が喋り終わり、なんとか上目遣いに彼女の顔を覗き込むと、彼女はいつもの笑顔で月を見上げていた。


あの絵本の結末を教えてあげようか、暫くして彼女はそう言った。出来ればね、と俺も言った。やっぱり教えてあげないよーん、と彼女は言い、そっか、と俺は溜息を吐いた。彼女はスキップをしてそこら辺を駆け回り、俺はそれをじっと見ている。嬉しそうに、月の下を走り回る。やがて疲れたのか俺の目の前に座り込み、手で俺を持ち上げた。ふと我々の影を辿っていくと、地面には、林檎を食べる少女のような影絵が出来上がっていた。俺はそれでいいと思った。何故なら俺は林檎なのだ。それでいい。


そして俺は喰われる。


そこら辺に液体が飛び散り、蛆虫と一緒に脳細胞がプチュプチュと可愛らしい音を立てて破裂してゆきながら、俺の意識も薄れていく。そんな中、最後の力を振り絞って俺は口を開けた。「一つだけ忠告しておく」「何?」彼女の顔を見ると、目からは涙が止め処なく流れていた。心なしか声も掠れ、元々鼻に掛かっていた声が、さらに身体の奥から聞こえてくるようだ。「君は笑顔をこぼしすぎる。それは君の悪い癖だ。直したほうがいいと思う」「なんで?」「君の笑顔をそこまで安売りする必要はない、もう少し斜に構えていてもいいんだよ。どうせ林檎が腐るまでには随分と時間が掛かるんだ」


どこから廻り込んで来たのか、鼻から蛆虫がひょっこりと顔を出したので、ほう、こいつは珍しいこともあるものだ、と思っているとその蛆が地面に落ちた。他にも少女の口から零れ落ちた蛆とともにウネウネと蠢いていたのを見ていたのだが、やがて数が多すぎて目で追いきれなくなり、それは単なる白い蛆の大群と化してしまった。大群で一匹、大群で一匹の蛆虫。


そんな蛆虫どもに一面が多い尽くされた。